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ビートルズ的

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5月17日夕刻、千駄ヶ谷駅のアナウンスでポール・マッカートニーの国立競技場公演が中止になったことを知った時、ぼくは34年前の冬の朝、頭を下げ、じっと机の上を見つめながら涙を流していた少女のことを思い出していた。彼女も、この人波のどこかにいるのだろうか。今でも1980年1月の武道館のチケットを大切に持っているのだろうか。

ポールが日本で倒れた
。ぼくは、まるで、あの34年前の少女のように動揺し、狼狽し、憂懼していた。自分でも全く意外で、甚だ思いがけない感情が湧き上がってきて、身内の不幸を知らされたかの如く心が激しく揺さぶられた。

「超高額のチケットをこぞって買い、寸前の中止に文句を言わず、払い戻しもしないで、次回公演を待ち望む発言をするおじさんたちって、『ビートルズ的』じゃないと思う。」「チケットが法外なことや、中止発表が遅すぎることにも怒りの声が聞こえてこない異常さ。ポールをまるで王様のように奉りすぎていないか?もう少しフラットな目線で接するべきだ。当の本人は『♪女王陛下はいい女』と歌った人だもの。」

共にスージー鈴木氏のツイートである。言わんとすることは分からないでもない。ぼく自身もついこの間まで、往年のロックスター達のボッタクリ商法にありったけの笑顔と盛大な歓声で応じてしまう無邪気でお人好しな中高年の音楽ファンをあざ笑っていた。しかし、これだけは言いたい。センチメントにすぎて自分でもいやになるが、ポールは今、この東京で病と闘っているのである。彼の病状を心配すること、そして、一ファンとして次回公演を待ち望むことのどこが「ビートルズ的」ではないというのか。
高額チケットの問題と、アーティストの身を案じることとは全く違う次元の話ではないのか。ぼくは、34年前の少女のように、誰かのために一片の嘘も汚れも無い涙を流せる人は心から素敵だと思うし、もし「ビートルズ的」とは何かと聞かれたら、そのようなイノセントな気持ちを幾つになっても大切に持ち続けている人のことだと答えるだろう。

「1969新宿西口地下広場」私論(序章)

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地下広場

かねてよりお世話になっている“フォークゲリラの歌姫”大木晴子さんの著書「1969新宿西口地下広場」(新宿書房)がついに完成し、先週から予約分の発送が始まった。ぼくの手元に届いた真新しいインクの匂いのする一冊は、早速、付箋と書き込みでいっぱいになり、まだ一週間も経っていないのに良い感じで年季の入った本になってしまった。

それにしても、装丁、内容共に掛け値無しに見事な出来栄えである。付属DVDに全編収録されているドキュメンタリー映画「'69春~秋 地下広場」(大内田圭弥監督作品)も、晴子さんが大内田監督夫人から譲り受けた16ミリフィルムをクリーニングした結果、44年前の鮮明な映像を取り戻した。

映画「地下広場」については、すべての記録映画は中立ではありえず、キャメラを回す側、もしくはフィルムを編集する側の視点に影響されること、また、東京フォーク・ゲリラの2人の若者が70年代前半に孤独な闘いを強いられた「新宿西口広場裁判」との密接な関係性、すなわち、国家権力の弾圧という厳しい政治状況の下製作された映画であることを理解した上で観た方が違和感無く映像に入っていけるような気がする。この点は、85頁にわたって収録されている大木さん御夫妻(夫であるカメラマンの茂さんもフォーク・ゲリラの仲間であった)の秀逸な対談に詳しいので、是非、本書を一読してから、DVDを鑑賞されるようお勧めする。

書きたいことは山程あるが、残念ながら時間が無い。次回以降、個人的な感想を少しずつまとめたい。僭越ではあるが、少しばかりの異論も含めて――。
なお、本書はカバーを外すと、中から当時のガリ版刷りの歌集が登場する。鈴木一誌さんのアイデアだろうか。岡林信康の「友よ」、そして中川五郎の「うた」という定番の“選曲”も含め、ゲリラ達の歌声が聴こえてくるような実に素敵なデザインだ。

「1969新宿西口地下広場」(DVD映画『地下広場 -1969・春~秋』付)
大木晴子・鈴木一誌 編  3200円(税別)
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/html/mybooks/438_1969.html

購入方法はこちらを
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/2003Konyu_IndexF.html

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「1969新宿西口地下広場」私論その1~歌を手段とする権利

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東京フォーク・ゲリラ

「1969新宿西口地下広場」(大木晴子・鈴木一誌編著)で特に印象深く描写されるのは、東京フォーク・ゲリラの若者達が「歌の意味」について自問自答する姿だ。すなわち、歌は表現なのか、それとも、人寄せの手段なのか?
伊津信之介さんや堀田卓さんは「フォーク運動はそれ自体として独自の発展を遂げるべきであり、集会の前振りや宣伝として使われるのはおかしい」と主張し、一方で晴子さんは「討論の小さな輪こそ最終目的であり、歌が人集めの手段だと言われればまさにその通りかもしれない」と考える。
確かに当時の記録を読むと、ゲリラ達の内部で、「歌は表現か手段か」についての真剣な議論が交わされた様子が伝わってくる。しかし、結局ふたつの主張はまじわらず、巨大な人の渦の中で、「フォークの持つ音楽性は拒否され、フォークを包む周囲の状況の政治性だけが強調され」、ついには「フォークは運動のアッピールだ、集まってくれた人々が市民運動に立ち上がれば最高だ」という、いささか政治的に偏った結論に達してしまう。ぼくはそのことを批判するつもりは一切ないし、むしろ、当然の帰結点であろうとさえ思う。大木茂さんが的確に指摘されているように、「歌は表現か運動かという二者択一ではない」し、何より、1969年5月17日の機動隊の出動により、「事態があっという間に歌を追い越し」「いきおい歌は運動的にならざるをえなく」なってしまったのだ。
 
しかし、このような状況論的な考察は、ゲリラ達の真摯な自問自答の前ではあまり意味が無いようにも思える。何より大切なのは、地下広場でがむしゃらにギターをかき鳴らし歌った彼ら自身のフォークソングへの思いを確認することではないか。
その最良のテキストの一つとして、本書にも掲載されている小黒弘さんによる「プロテストソング」論を挙げることができるだろう。地下広場の歌の輪がせいぜい百人程度の牧歌的なサークルだった頃に書かれ、べ平連ニュース第44号(1969年5月1日)に掲載されたそれは、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディラン、IWWの「赤い小さな本(Little Red Songbook)」などを引きながら、無邪気なまでにアメリカン・フォークへの憧憬をあらわにする。この小論から浮かび上がってくるのは、難解な思想を振りかざす政治的な人間ではなく、ただフォークソングが好きでたまらず、だからこそ世の中の不正から目を背けることができない純粋で生真面目な音楽青年の姿だ。そして、小黒さんの高校時代の同級生であり、音楽仲間であり、フォーク・ゲリラに共に参加した伊津信之介さんもまた、ミシシッピ・ジョン・ハートに傾倒する筋金入りのフォークソング・マニアであった。さらに、全浪連を経てゲリラに加わった堀田卓さんは、マイク・シーガー率いるニュー・ロスト・シティ・ランブラーズなどのマウンテン・ミュージックを敬愛するバンジョー弾きであったし、晴子さんも、同世代の若者である中川五郎氏の作る新しい歌の数々に魅せられ、言葉の一つ一つを慈しむように大切に歌っていた。
皆、フォークソングを愛していた。それは、彼ら、彼女達の生活の一部であり、青春の叫びであり、自由を求める呻きでもあった。

1960年代の日本のフォークソング運動を牽引した詩人であり英文学者である片桐ユズル氏は、運動末期に次のような文章を残している。
「われわれはつねに、たのしみながら、ゆかいにやってきましたよ。うたがすきだからやってきたんだ――だから、われわれは歌を手段とする権利があると思うんだ。だけど、歌がすきでもないくせに、これは政治的に有効な手段だからつかってやろう、こういうかんがえのひとも運動の初期にはいましたよ。だけど、彼らはすぐに、それほど速攻性がないのでイヤ気がさして、やめてしまった。」
歌は表現なのか、手段なのか。ゲリラ達が自問自答の末に、納得できる答を見出したかどうかは分からない。しかし、片桐ユズル氏の含蓄に富んだ言葉に倣うなら、フォークソングを心底愛していた彼らには、間違いなく歌を手段とする権利があったと言えるだろう。


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静かにきっぱりと、反対を告げること

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ぼくたちは、まるで兵士のごとく、過酷で理不尽な仕事であっても、指示されれば、それらを忠実にこなし、没頭し、日々追い立てられ、擦り減らされ、新聞やテレビのニュースを見ながら「これはまずいな」と思いながらも、結局は、消耗しきった心身状態では何もすることができぬまま、全く無力な「声なき声」として時代の底辺に沈殿してしまっているような気がする。それは、まさに、フランク・パブロフがファシズムの時代の到来を予見した「茶色の朝」の次の一節のように。

「もっと抵抗すべきだったのだ。だがどうやって? 連中の動きは実に迅速だったし、私には仕事もあれば日々の暮らしの悩みもある。他の連中だって、少しばかりの静かな暮らしが欲しくて手を拱いていたんじゃないのか?」

ぼくたちはリアリティをもって理解しているだろうか。戦争とは「殺し合い」以外の何物でもないということを。そして、一旦それが始まったら、職業軍人同士の殺し合いに留まらず、早晩、市民同士の殺し合い、すなわち、毎日、満員の通勤電車に揺られながらハードワークを強いられているぼくたち、もしくは子供たちが兵隊として駆り出され、他国の友人たちを銃や爆弾で殺戮する殺人者になってしまうことを。

自分自身を鼓舞するため、辺見庸氏の文章をここに書き留めておく。

◆辺見庸「私事片々」
甘く見てはならない。高をくくってはならない。相手を見くびってはならない。前例はもうなにもあてにならない。これは、この機に自衛隊を「日本国軍隊」として、どうしても直接に戦争参加させたがっている、戦後史上もっとも狂信的で愚昧な国家主義政権およびそのコバンザメのような群小ファシスト諸派と、9条を守り、国軍化と戦争参加をなんとしてもはばみたいひとびととの、とても深刻なたたかいである。それぞれの居場所で、各人が各人の言葉で、各人が各人のそぶりで、意思表示すること。「日常」をねつ造するメディアに流されないこと。ことは集団的自衛権行使の「範囲」の問題ではない。そもそも集団的自衛権じたいに同意しない、うべなうことができないのだ。9条に踏みとどまること。ひとり沈思すること。にらみ返すこと。敵と味方を見誤らないこと。いまを凝視すること。静かにきっぱりと、反対を告げること。「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性」をいま眼前にしている。それはよみがえったのだ。虚しくても空疎でも徒労でも面倒でも、たたかいつづけること。怒りをずっともちつづけること。安倍政権はうち倒されるためにのみ存在している。(2014/06/17

官邸前をゆるがした2日間

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6.30官邸前デモ

負け戦かもしれないが、とにかく声を上げて、抗ってみようと思った。ビジネスバッグに重たい革靴にスーツ、それにしても、この仕事用の出で立ちは、何てデモに向いてないのだろうと改めて感じた2日間、警官隊に押されながら、官邸前まで歩き、ただひたすら立ち、叫び続けたぼくは、まるで絞り切ったボロ雑巾のようにくたくたに疲れたけれど、そして、悔しくて、悲しくて、何度も何度も涙が溢れたけれど、「憲法壊すな!」「戦争反対!」「安倍は辞めろ!」とよく通る声で力強いコールを続ける頼もしい若者たちと、子供連れの優しく澄んだ目をした若いお母さんたち、そして、路上で粘り強くユニークな抗議活動に挑み続けるドライバーにバイシクル・ライダー、彼らの勇気がぼくの落ち込みがちな気持ちを奮起させてくれた。この国を真に愛し、ヒューマニズムに満ちた、かくも善良な人々のことを、得体の知れない万能感に浸っているあのイカれた男は、またしても、「左翼」、「恥ずかしい大人」と口汚く罵倒するのだろうか。このまま負け戦で終わらせるわけにはいかない。黙っているわけにはいかない。一歩でも二歩でも前に出よう。「ナチスの手法に学び」、憲法クーデターを強行したアベシンゾウを、2014年7月1日夕刻の閣議決定を、そしてそれに同調した国会議員共を、民主主義の手続きに則って永遠に葬り去るその日まで。

闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう(前編)

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7月上旬にfarlongestさんからいただいた3つのコメントへの返事を書くことができないまま3週間が経ってしまった。己の怠慢と弁解しようのない不義理を深くお詫びしたい。今から書く文章が返答になるかどうか、いささか心許ない気もするが、とにかく少しずつ言葉を綴ってみようと思う。

ぼくは、たかをくくっていたのかもしれない。「…ナショナリズムの高揚に陶酔し、中国、韓国、そして米国とも戦うことを辞さないと思いつつある隣人、家族とどう向き合うか」というfarlongestさんの問いかけにギクリとしながらも、まだそこまで事態は切迫していないだろうという根拠の無い楽観論にとらわれていた。確かに「ウルトラ」が付くような偏狭で醜悪なナショナリズムが幅を利かせつつあることは認識していたが、せいぜい、三流週刊誌やネット言論をにぎやかす程度で、自分の友人や家族がそのような考え方を持つとは全く想像できなかった。

しかし、どうやらその見立ては甘かったようだ。先日、大学時代の音楽仲間と旧交を温める機会があり、約20年ぶりに再会する懐かしい顔ぶれと楽しく酒を酌み交わしたが、二次会のロックバーで、どういう話の流れであったか、現在の日韓関係に話が及んだ。すると、驚くべきことに、彼らは、突然何かが憑依したかのように、目を吊り上げ、唇を尖らせながら、口々に韓国を非難し始めたのだ。いわく、日本の朝鮮半島統治がいかに善意に満ちたものであったか、創氏改名も朝鮮人自身が望んだものであった、にもかかわらず、韓国はねつ造された反日教育を行い、朝日新聞はそれを煽っている――。

学生時代、政治をあれほど嫌っていた彼らが、今や極右政治家顔負けの妄言を吐いていることに絶句した。何を根拠にそのようなことを言うのだと尋ねると、何冊かの書名が挙がった。それはいずれも、10年程前に話題になった本で、ぼくも読んだことがあるが、エビデンスに乏しく、事実誤認と思い込みに満ちたいわゆる「トンデモ本」の類であった。しかし、このような箸にも棒にもかからないと思われた偽史満載のトンデモ本が、まるでバイブルの如く友人たちの心をしっかりと捉え、あろうことか折伏までさせてしまうことに愕然とせざるをえなかった。

かつて、ぼくたちの絶対的なヒーローは、ポール・ウェラーであった。80年代半ばにポール、そして、ビリー・ブラッグが中心となって発足した政治団体「レッド・ウェッジ」は、サッチャー政権を打倒するため、コンサートツアーなどを通じて、若者たちに「よりましな」労働党への投票を呼び掛けた。その政治的すぎる行動はミュージシャン仲間から多くの批判や中傷を受け、結果も無惨な敗北に終わったが、それでもあの馬鹿馬鹿しいライブエイドに比べれば、「よりましな」ムーブメントであったように思う。そして、あの当時、ポール率いるスタイル・カウンシルの政治的ステートメントでもあった「アワ・フェイヴァリット・ショップ」が、この国では、お洒落なカフェバーでの恋の語らいのBGMになっていたことを思い起こせば、今に続く音楽と政治とリスナーの奇妙な関係性に軽く眩暈を感じずにいられないのだ。

ぼくたちは、結局、80年代のカフェバーで戯れていたカップルのように、ポール・ウェラーの真髄など何一つ理解しようともしないまま、彼と決別したのではないだろうか。一人、ロック・バーを後にしたぼくは、二度と取り戻せない大切な何かを失ってしまったかのような寂寥感に襲われていた。
(この稿つづく)

前進

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憲法!崖っぷち!私たちはおそれない

大木晴子さんの著書「1969 新宿西口地下広場」の発刊記念イベントが、昨日(8月16日)、新宿職安通り沿いの小さなライブハウスで開催された。この日はあいにく外せない用事が入ってしまい半ば諦めていたのだが、どうにかこうにか中抜けして参加することができた。

良いイベントであった。元NHKディレクター志村建世さんによる60年代当時の16ミリ映画撮影機(なんとゼンマイ式!)を実演しながらの映像論は大変分かりやすく、映画「地下広場」撮影時の苦労が伝わってきたし、何より「説明(啓蒙)するのではなく、各人に“気付かせる”のが良いドキュメンタリー」とのメッセージは、全ての表現や運動に通じる教訓として重たく胸に響くものがあった。

また、元べ平連事務局長の吉川勇一さんからは、フォーク・ゲリラにとって大きなターニングポイントとなった1969年6月28日の出来事、すなわち、機動隊が新宿西口地下広場の何千人という群衆めがけガス弾を一斉射撃し、フォークの広場が「怒声と涙の広場」と化したあの惨劇について新たな事実が報告された。これは、極めて重要な内容なので以下箇条書きにして記録しておく。

○新左翼党派(第4インターナショナル、共産主義労働者党など)は、新宿郵便局自動読取機搬入阻止闘争にフォーク・ゲリラを利用しようと考えていた。具体的には、闘争を土曜夜の反戦フォーク集会とぶつけることで、参加した数千の市民をデモに巻き込み、国家権力による郵便局合理化の企てを大衆的に粉砕しようと画策した。

○フォーク・ゲリラ側は、勿論、新左翼には利用されまいとした。悩んだ末、利用されるのでもなく、知らぬ顔をするのでもなく、「(機動隊を)監視に行く」という方針を決めた。しかし、結果は全部巻き込まれてしまった。フォーク集会に初めて暴力が持ち込まれ、怪我人も出て、フォーク・ゲリラが壊されるきっかけとなった。

○警察側は、新左翼党派の動きをあらかじめ察知しており、フォーク集会が闘争に巻き込まれることを「フォーク・ゲリラと地下広場を終わらせる千載一遇のチャンス」と考え、手ぐすね引いて待っていた。そして、警察の思惑通りになった。

○この重大な問題について当事者の間でいまだに十分な総括や検証が行われていないのではないか。

会場に一気に重たい空気が流れた。吉川さんの報告を受け、晴子さんは、「6月28日、私たちは本当に真剣に考えに考えて、人々に『見に行こう』と呼びかけた。(呼びかけた)ゴリちゃんは『何千という人たちがワーッと動き出した時、言葉の怖さを感じた。思い出すたびぞっとする』と言っている。彼は、その重さをいまだに抱えながら生きているのです」と話し、「利用というのは寂しい。左側にいた人たちも総括が必要ですね」とやや曇った表情を見せた。

イベントでは、このほか、「標的の村」を監督された三上智恵さんからの沖縄レポートがあり、それは、まさに、マスコミが報道しない国家権力による沖縄圧殺についてのリアルな現場報告であった。個人的に印象に残った話がある。基地反対闘争の最中、反対派住民が歌い出す。ウチナーンチュなら誰もが知っている沖縄民謡だ。その時、対峙する沖縄防衛局の職員も、実は心の中では「イーヤーサーサー」と合いの手を入れているのではないか。何故かって、彼らも同じウチナーンチュだから――。正確ではないが、概ねこのような話であった。歌が、闘争という極めて非日常的な場における敵と味方という硬直的な関係性を超えて、長い長い歴史を共に育んできた同胞の血と地と知の歴史を想起させる、そして人と人との関係性を紡ぎなおす、そのような手段として活きているのだということをあらためて認識させてくれるエピソードであった。

最後にどうしても書いておかなければならないことがある。それは、晴子さんの歌声の素晴らしさだ。この日、晴子さんは、60年安保闘争で命を落とした樺美智子さんに捧げる追悼歌「前進」を一番だけ無伴奏で歌ってくれた。高橋敬子さんの詩に中川五郎さんが曲を付けたこの歌は、静謐な曲調でありながらサビでやや強引な転調をみせるため、演奏無しに上手く歌いこなすのは難しい。それを、晴子さんは、まるで昨日まで地下広場で歌っていたかのように、正確な音程で、そして、説得力溢れる素晴らしい美声で歌ってみせたのだ。

  あなたがもう笑えないから
  あなたがもう愛せないから
  わたしはこんなにすすりなくのだ

当時、この歌はまだレコード化されておらず、晴子さん達は手作りの歌集と口伝えで曲を覚えたという。権力の嫌がらせが無かった頃、地下広場の小さな輪の中で何回も歌われた。そして、45年が経ち、今、新宿のライブハウスで歌っている。目を閉じて聴きながら思った。「歌声は最強の武器である」と。その武器を、彼女は何故封印してしまったのであろうか。

#9 Dream

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ジョン・レノンが9という数字に強い思い入れを抱き、これを自分の一生を支配するナンバーと捉えていたことは有名な話だ。例えば、誕生日が10月9日。幼少期に暮らしていた場所がリヴァプールのニューキャッスル・ロード9番地。ヨーコと出会ったのが11月9日。そして、愛息ショーンの誕生日も自分と同じ10月9日、等々。ジョンと9を結びつけるエピソードには事欠かない。なお、彼の命日12月8日は、リヴァプール時間(もしくは日本時間)だと12月9日になる。

9にこだわりを持つ者は、ジョンだけではない。特に日本人の場合、9という数字には、善かれ悪しかれ、特別な感情を抱く者が多いのではなかろうか。それは言うまでも無く、憲法9条という世界でも稀な「非戦条項」を持つことの誇らしさ、もしくは嫌悪感、もしくはその両方が入り混じったアンビバレンスな感情に由来するものだろう。

そして、昨99日(9のゾロ目!)、早朝5時前に、フォーク・ゲリラの歌姫、大木晴子さんの歌声がラジオ(NHK「ラジオ深夜便」)から軽やかに流れた。45年ぶりに歌う中川五郎さんの「うた」。素朴なギターの爪弾きに乗せて、優しく語りかけるように歌われたそれは、まさに、世界中のケガ人を「駆けて行って抱き上げ」ようとする者だけが持つしなやかな義侠心で充ち満ちているように思えた。

「誰だって人を殺すのはいやだし、殺されるのもいやなはず。その原点に立って、平和を育むことができれば。話せば分かり合えると私は信じているんです。バカみたいに」と柔らかな声で話す晴子さん。その言葉に深く共感し、何度も頷きながら、再び9という数字のことを考える。1989年暮れ、ベルリンの壁崩壊後のドイツでレナード・バーンスタインが指揮を執って演奏した曲は、ベートーヴェンの交響曲第9番であった。そこから遡ること20年、1969年7月19日、新宿西口広場は数千人の機動隊員に占拠され「通路」となった。さらに遡ること24年、1945年8月9日、米軍によるジェノサイドの決行――。9という数字には、平和と破滅の2つのイメージが共存しているようだ、と書くと数秘術めいてしまうだろうか。

※ 未推敲につき、後日加筆修正の予定。
(甚だ不十分な文章ですが、放送直後に浮かんだイメージから遠ざかる可能性があるため、加筆修正はやめました。)

◆晴子さんが出演したNHK「ラジオ深夜便」は、10月6日までパソコンで聴くことができます。
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/doga/16.html

Folk Songs(1)  Little Green Cars - The John Wayn

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文章を書くスピードがひどく落ちている。特に今年に入ってからは、我ながら全く以てウンザリする程言葉が出て来ない。元来、書くという七面倒くさい行為より、読んだり、聴いたり、見たりする方が好きということもあるが(つまり単なる怠け者である)、ここまで書けない状態が続くと、少々焦ってもくる。もしや、アタマの病気ではあるまいか。いや、そこまでいかずとも、深刻な老化現象の前兆ではないか。

今回新設したテーマ「Folk Songs」は、そんなダメな自分を鼓舞するためのリハビリの場であり、個人的なメモ帳のようなもの。今聴いている音楽について思い付いたことをとにかく書いてみる。制限時間20分、およそ300字程度という縛りをかけて。Folk Song(フォークソング)とは、Folk、すなわち、People(民衆)による、民衆のための歌のこと。その概念は、ロックやポップスをも包含すると考える。どこぞのロッキンローラーとは次元の違う懐の深い音楽なのである。


はて、このコーラス、どこかで聴いたことあるぞという既視感ならぬ既聴感に襲われ、即座に思い浮かんだのが、あのすばしこいキツネ達(Fleet Foxes)。しかし、キツネの頭目、ロビン・ペックノールドが遠くシアトルからアイルランドを幻視していたのに対し、リトル・グリーン・カーズの面々にとってのそれは、自分達が生まれ育ち、今まさに2本足で立っている祖国の土地に他ならぬ。若干20歳の若者達がブライアン・ウイルソンとR.E.M.とウディ・ガスリーとその他諸々のグッドタイムミュージックを貪欲に吸収し、攪拌し、奪還した結果、最新型のフォークソングが誕生した。突き抜けるコーラスと疾走するメロディが胸を打つ「ジョン・ウェイン」は、2012年発表の曲でありながら、既に堂々たるスタンダードナンバーの風格を漂わせている。


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「1969新宿西口地下広場」私論その2~新宿にゲリラを見た

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東京フォーク・ゲリラ

本稿の内容は、少なからず特定個人への批判になるし、本自体の評判も落としかねないことから公開を控えていたものだが、昨今のネット上での批評や、アマゾンの9月16日付レビューを読み、やはり誰かがはっきり書いておくべきであろうと思い、力不足ではあるが声を上げてみることにした。しかし、これが完全に正しいかと問われれば、一片の迷いも無く「そうだ」と言い切る自信はない。願わくば当時の事を知っている方々が、自らの体験に基づいて証言していただければと思う。

「1969新宿西口地下広場」を読んでいると、まるで小石の入ったパンを食べているかのような異物感を覚える瞬間がある。それは、なぎら健壱氏が寄稿した「フォークゲリラがいた」というエッセイに起因する。日本屈指のフォーク研究家としても知られるなぎら氏らしく、アメリカのフォーク・リバイバルの説明から始まり、それが日本に飛び火し、カレッジフォークから関西フォークへと発展し、その大きな流れの中でフォーク・ゲリラが登場したという時代背景が流暢な文章で綴られていく。ここまでが前半の6頁。もうこの時点で、ゴリッ、ゴリッと小粒の石を噛まされたかのようなひっかかりを感じる箇所があるのだが、それは後述するとして、異物感の正体である大粒の石は、エッセイの後半に登場する。

彼はこう書く。「そして7月19日、(中略)警察は数を増す聴衆にさらに危機意識を強め、2500人の機動隊を導入し『ここは広場ではありません。通路です。立ち止まらないで下さい』という言葉とともに排除を始めるのである。(中略)それ以来フォークゲリラは場所を変えてゲリラ活動をすることはなく、活動は終息することとなってしまったのである。(中略)ここで疑問に思うことは、新宿の西口広場での活動が違法だと言われるのならば、なぜ他に自分たちの思いを大衆に問う場所を見つけなかったのかということである。若者たちの心の中にあった鬱積がエネルギーとなり、聴衆を集めたはずではなかったのか?」。そして、この後は、毎度お馴染みの高石友也とゲリラとの対決話が続き、さらに、小室等・森達也両氏の対談(雑誌「東京人」)であったり、高田渡の「東京フォークゲリラの諸君達を語る」の歌詞であったり、同著「バーボン・ストリート・ブルース」における小田実批判の下りであったりという手垢の付きまくった引用が続いた後、「フォークゲリラは何をやりたくて群衆を引っ張っていったのか――何をやり遂げたかったのであろうか?(中略)あたかも実践に及んだ行動が、そこに理論だけを残して消えてしまったとしか言いようがない。現実として、時代の一過性以外の何ものでもなかったのである」と一方的に結論付けるのだ。何と凡庸で紋切型のフォーク・ゲリラ批判であることか。

いや、この際、凡庸でも紋切型でも一向に構わないのだ。なぎら氏の文章に名状しがたい違和感を覚えたのは、彼のフォーク・ゲリラ批判の大部分が事実誤認もしくは認識不足によるものだからだ。これは甚だ深刻で看過できない問題であると思う。何故なら、偽史に基づくねじ曲がった解釈であっても、“公式本”に掲載されることで、真っ直ぐな事実として一人歩きしてしまうからだ。それは許されてはならないことだ。歴史は美化されてもいけないし、根拠なく悪罵されてもいけない。このような考えに立ち、以下、反証を試みる。

まず、新宿西口地下広場から排除されたゲリラ達は、なぎら氏の書く通り「場所を変えてゲリラ活動をすることなく活動は終息」してしまったのかという点である。はっきり書いておかねばなるまい。これは全くの事実誤認である。ゲリラ達はその後も執念深く闘い続けた。地下広場を追われた彼らは、渋谷、吉祥寺と場所を変えて歌ったが、地下広場同様権力の容赦無い弾圧に遭い、暴力的に排除され、それでも9月には、新宿中央公園の噴水広場に場所を移し、毎週土曜日のフォーク集会を断固敢行したのである。当時の記録(週刊誌、月刊誌等)を辿ると、少なくとも1970年2月末まではコンスタントに集会が継続されていた様子を確認することができる。大方予想はつくだろうが、地下広場の時のような華々しさは全くない。寒風吹きすさび、私服警官やパトカーが監視する中、まばらな聴衆を相手に歌い続けた。このほか、10・10佐藤首相訪米阻止集会、10・21国際反戦デー、沖縄嘉手納基地の座り込みなど様々なデモンストレーションの先頭でギターを武器に闘うフォーク・ゲリラの姿を見ることができる。彼らは激動の1969年を駆け抜け、70年代まで歌い続けたのだ。「時代の一過性」のものとして泡のように消えたのは、ゲリラではなく、あの夏、地下広場に集まった数千人の群衆の方だったのである。

次に、「高石友也とゲリラとの対決」についても、正確な事実関係を書いておく必要があるだろう。対決の場となった69年8月8日大阪城公園での「ハンパク・フォーク・イン・ナイト」、そして8月11日の日比谷野外音楽堂での「フォークゲリラ大集会」については、本ブログでも既に扱ったところであるが、後者について、その後判明した重大な事実を書いておかねばならない。この集会は、当事者であるフォーク・ゲリラ達とは全く関係が無く、高石事務所(URCレコード)とビクターレコードが、姑息にも主催者や企画者の名を伏せて、いかにもゲリラ達の集会のごとく見せかけて開催したものであった。コマーシャルやマスコミの力で集められた10代の少年少女達で音楽堂は超満員。場内では、URCやビクターのレコードも堂々と販売され、テレビカメラも入るなど、商業主義の匂いがプンプンとする代物であった。これに異議を申し立てたのが、当時、吉祥寺駅を拠点に活動していた反戦フォーク集団「西部戦線」と東京フォーク・ゲリラの面々。詳しくは、今後「フォークゲリラを知ってるかい その20」で述べさせていただくが、結論から言うと、彼らの抗議はしごくもっともなものであり、「帰れコール」をした観客の方が「意識が低かった」と言わざるをえない。故にこの集会に参加しながら、一切の疑問も覚えず、それどころか、ゲリラ達の抗議行動に「怒りすら感じていた」と言い切るなぎら氏が、事の本質を理解していたとは到底思えないのだ。(この点は、2008年7月19日付の拙記事も同様のミステイクを犯しているので、深く反省するとともに、後日追記にて訂正させていただく。)

関連して、高田渡の有名な風刺歌「東京フォークゲリラの諸君達を語る」についても説明を加えておこう。以前にも書いたが、この歌を引き合いに出して、フォーク・ゲリラをくさす手合いの何と多いことか。そして、高田渡を神格化し、彼の意見は無条件で正しいと信じ込む「信者」気質のフォークファンが、自らの思考停止状態(すなわち内なるファシズム)に何と無自覚であることか。こういった連中は、高田渡の次の発言をどのように受け取めるのだろうか?
「まだ、内容みたいなものを、説明的にしか受け取れないんだね。ぼくの一連の歌が放送倫理規定にひっかかったけれど『フォークゲリラの諸君に』だけが通ってしまった。あれは何もフォーク・ゲリラだけを批判したんじゃないんで、そこらへんにいる人を全部、ひっくるめて歌ったのにね。(中略)『フォークゲリラの諸君に』を聞いて、右翼の人が気をよくしたらしいけれど(笑)、聞く人によっては、左の歌にも、右の歌にもとれるような歌がやっぱりいいね。(中略)誤解がおきやすいのが、一番いい詩なんだよ。」(季刊フォークリポート 1971年夏の号「松本隆・高田渡、お茶を飲みながら語る」より)

なお、この歌の一般に知られているバージョンは、69年8月17日、第4回関西フォーク・キャンプの打ち上げコンサート(京都丸山公園野外音楽堂)で歌われたものだが、最初期のバージョンが、その8日前、8月9日に岐阜県中津川市で開催された第1回全日本フォークジャンボリーで披露されている。高田渡は、「ゆうべ作ったばかりの歌をイッパツやってみたいと思います」と話した後、次のように歌う。

  これからちょいと フォークソングについて
  ひとこと話してみたいのさ
  何をブッ刺すかはわからない
  何しろ相手はフォークだから

  あんたらは知ってるだろう
  フォークゲリラという連中をさ
  あのイカす連中をさ
  あのエリートさん達をさ

  このあいだそのエリートの一人と話したのさ
  そしたら言っていたことがある
  自慢じゃないが 僕は今逮捕状が出ているのさ
  馬鹿げた話だよ

  またこんなことを言っていたよ
  今流行りの関西フォークソングは
  高石とか岡林の唄ってるフォークソングは
  そろそろ限界だとさ

  (会場爆笑。「何という(笑)」「意義ナーシ!」の声上がる)

  そして奴らは唄うのさ
  関西フォークのいにしえを


「正規版」との大きな違いは、「新宿の西口の」というフレーズ、そして、歌のオチでもある「カメラにポーズを取りながら『マスコミは帰れ』」の下りが丸ごと存在しないことである。ここで、高田渡のMC「ゆうべ作ったばかりの歌」という点を考察してみると、「ゆうべ」、すなわち、69年8月8日の夜に何があったのかというと、あの「ハンパク・フォーク・イン・ナイト」である。高石事務所所属のミュージシャンが勢揃いしたこのコンサートで、東京フォーク・ゲリラと高石・岡林との論争があったことは既に述べたとおりだ。(「フォークゲリラを知ってるかい その19」参照)。恐らくは、高田渡も出演者としてその場にいたのだろう。難解な言葉を使って高石らを追及するゲリラ達(渡氏の目には、お勉強の出来る忌々しい「エリート」として映ったに違いない)に違和感を覚えた彼は、持ち前の風刺精神を発揮して、その出来事を即興で歌にしたのではなかろうか。その後、推敲の段階で、「新宿の西口」や「カメラにポーズ」の下りを加え、マスコミとフォーク・ゲリラを揶揄する歌に改変したのであろう。このほか、なぎら氏が引用している渡氏の小田実批判も根拠の無い誹謗中傷の類と考えるが、この点は門外漢なので、論評は避ける。

最後に本エッセイの終盤にある「フォークゲリラは何をやりたくて群衆を引っ張っていったのか」との一文についてどうしても書いておかねばならないことがある。これは、あまりにもひどい見解だ。フォーク・ゲリラの本質を何一つ理解していない者の愚見としか思えない。小黒弘氏の「新宿西口裁判闘争」における血を吐くような訴えを引くまでもなく、あの集会を構成していた多くの人々は、同一の思想を持ち、一つの方向性を目指している人々ではなかったのである。彼らは自らの責任のもとに行動する主体的な一個人であったのだ。そんな人々が自由に討論し、発言し、歌う、それが西口フォーク集会であった。ゲリラ達は、その一人として、フォークソングを歌ったり、アピールをしたにすぎない。決して、指導者や扇動者のごとく、一定の方向に「群衆を引っ張っていく」存在ではなかった。このことは、フォーク・ゲリラについて論評する者なら、最低限知っておかなければならない基礎知識ではないのか。

なぎら氏は当時17歳のフォーク少年であったが、新宿西口地下広場のフォーク集会には一度も足を運んでいない。体験していない者が意見を述べる際は、何より謙虚に学ぶことから始めるべきであろう。かつて氏の著書「日本フォーク私的大全」を貪るように読み、また、名作「葛飾にバッタを見た」を愛聴した者としては、このような刺々しい文章を書くことは、身を切るように辛いし、悲しい。しかし、その辛さ、悲しさに留まっていてはならないのである。ここは替え歌を愛した東京フォーク・ゲリラの顰に倣い、「葛飾にバッタを見た」ならぬ「新宿にゲリラを見た」という戯れ歌で締めることにしよう。

  もしあんたが新宿にやってきたら
  西口の地下広場に来てみるといいよ
  高石も岡林もいないかわりに
  東京フォーク・ゲリラの一人も見られるかもしれないからさ

何というオソマツ。

葛飾にバッタを見た

Folk Songs(2) It Isn't Nice

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◆The Last Internationale - It Isn't Nice

チェ・ゲバラから革命家の孤高の魂を受け継いだレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの反戦と抵抗の叫びとへヴィーでヒップなサウンドが撒いた真紅の胞子は、今ようやく発芽し、「最後の革命歌」(The Last Internationale)を名乗る3ピース・ロックバンドとなった。ぼくは、ヴォーカルのデリラ・パスに恋しているので、彼女達の音楽(ガレージ・ロック)も政治的メッセージも無条件で支持してしまう。デリラが、シアトルのラジオ局
KISW 99.9にて、アコースティック・ギター1本で少々トチりながらも圧倒的な歌唱力で歌ったナンバーが、マルヴィナ・レイノルズ、バーバラ・ディーン、ジュディ・コリンズら60年代のフォークシンガーからバトンを託された「It Isn't Nice」であることも胸を打つ。1964年のミシシッピ音楽キャラバンでは差別と貧困にさらされた黒人達に勇気を与え、日本でも中川五郎氏が「カッコよくはないけれど」と訳し、梅田の地下街や新宿駅西口地下広場のフォーク集会で愛唱された「民衆の歌」である。

座り込みはイケてない/監獄行きはイケてない/もっと恰好いいやり方はあるだろうよ/でもうまくいった試しがない/イケてない/イケてない/あんたに何度も言われたが/私たちはいっこうにかまわない/それが「自由」のためならば

現代のフォーク・ゲリラは、ガリ版刷りの歌集ではなく、iPhoneで歌詞を見ながら歌う。デリラ・パスは、ニューヨークのストリートで歌い続けるべきだ。ぼくたちもまたどこかで歌うことができるだろうか。

◆中川五郎 - カッコよくはないけれど

喪失感の向こう側に

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どうしてこんなに悲しいのだろう。先週届いたばかりのヴァシュティ・バニアンの新譜「ハートリープ」を聴く度、ぼくの胸はしめつけられ、津波のように押し寄せる制御不能な感情の波に浚われ、体ごと崩れ落ちてしまいそうな気分になる。それは、掛け替えのない誰かがもう此処にはいないような、深い静寂の海の底で味わう完璧な孤独のような――。

ヴァシュティの歌声は、湖に張った薄氷に咲く白い花に似て儚く、美しい。そして、その消え入りそうなウィスパーヴォイスにそっと寄り添うように、アコースティックギターとピアノが素朴で優しい旋律を奏でる。フレーズは静かに反復し、それは、もはやフォークというより、ミニマルやアンビエントと形容した方が相応しい。

ここには、限りなく無垢な音楽がある。透明で、静謐で、まるで、世界の終りに空から降ってくる讃美歌のようだ。そして、ヴァシュティには、それを歌う資格がある。沈みゆくタイタニック号の上で「主よ 御許に近づかん」を演奏し続けたヴァイオリニストのように。喪失感の向こう側に音楽があるとしたら、このようなものかもしれない。

Heartleap / Vashti Bunyan
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俺たちの地獄はゆっくりと消えていく

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はっぴいえんど写真展

12月。渋谷の雑居ビルで開催された野上眞宏氏の「はっぴいえんど写真展」を訪れた際、ぼくは、ふと、「彼」もここに来たのではないか、いや、来たに違いないという奇妙な感覚に襲われた。何故だろう、これまで一度も、そのようなことは考えもしなかったのに。「彼」とは、もう30年近く会っていない。これからも会うことはないであろう。1985年の秋、「彼」は碧落の世界へと行ってしまった。

恐らくは、その雑居ビルの入り口で手にしたある映画のチラシが、「彼」のことをぼくに思い出させたのだろう。映画には、あの秋の日の炎に包まれた遁走劇も記録されているのだろうか。あれは本当に馬鹿げた出来事であった。「彼」の若さを利用し、二度と戻れない程の遠方に跳躍させ、消耗させ、孤独で惨めな逃走を強いた狡猾な大人たちを憎む。あれから30年――連中も今では善良な前期高齢者の顔をして、ちゃっかり福祉の世話にでもなっているのではあるまいか。ならば、ぼくはこう念じよう。“醜悪な老人たちよ、とっとと地獄に落ちてしまえ” と。

まもなく終わる2014年は格別に酷い年だった。しかし、今に始まった話ではない。この惨状の責任は少なからずぼく自身にもある。昭和40年前後に生まれた者なら、身に覚えがあるはずだ。若き日のぼくたちは、歴史に無知で、思想アレルギーで、泥臭い“運動”を毛嫌いし、一方で、新人類と持て囃され、ディスコにコンパ、車にスキー、世はバブル真只中、就職戦線は絶好調、貧困も差別も戦争もすべて別世界の話だったじゃないか。ひたすら享楽的かつ刹那的に生き、次の世代につなぐべき責任あるバトンなど何一つ持とうとしなかったじゃないか。そして、手法としては全く間違っていたが、私心無く、世の中の矛盾や不正に身体を張って立ち向かった「彼」のことを、忌まわしき存在として、嫌悪し、無視し、嘲笑していたではないか。

まぁいい、気を取り直して、中山ラビさんが1970年代前半に歌った「子供にはこういってやんな」を聴く。原曲は、かの有名なクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの「ティーチ・ユア・チルドレン」だが、中山容氏の味わい深い訳詞と、名手、古川豪氏による乾いたバンジョーの音色が相まって、まるでラビさんのオリジナル曲であるかのような不思議な魅力を醸し出している。

  ねえ あんたは旅空で
  あるんだよ 生きるには守るものが
  一人前になるだろう
  過ぎたものは 捨てようぜ

  子供には こういってやんな
  親父の地獄は ゆっくりと消えてく

  わけなんか 聞いちゃ駄目なのさ
  解れば きっと泣くだろう


ところで、同世代サン、あなたは、藤原さくらという若きミュージシャンを知っているだろうか。福岡出身の18歳の歌姫は、まだ未熟ではあるが、それでも時折ハッとするような良い曲を作る前途有望なソングライターでもある。彼女は、まさに我々の子供の世代だ。ぼくは、そのことがとても嬉しいし、愛おしい。だから、子供たちにはこう言ってやろう。親の世代の愚行を、お前たちが塗り替えていくのだと。

◆藤原さくら - Ellie

「ピースとハイライト」騒動雑感

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ピースとハイライト

一昨年の夏、サザン・オールスターズの新曲「ピースとハイライト」を初めて聴いた時、歌に込められた平和へのメッセージに深く賛同しながらも、楽曲としてはどうにも長閑で甘ったるく、まるでNHKの「みんなの歌」みたいだなぁとややシラけてしまったことを覚えている。その感想は今も変わらない。ポップス及びメタファーの達人、桑田佳祐氏の作品としては、あまり出来のよい部類とは言えないのではないだろうか。

その凡庸な歌が、新年早々、いわゆる「炎上」のネタになってしまったことに驚きを禁じ得ない。本来、年越しライブに足を運び、もしくは、WOWOWで生中継を観戦したサザンファン(ぼくもその一人だ)のみが「相変わらず桑田はしょうがねぇ奴だな」と苦笑して終わったはずの密室芸的な「勲章パフォーマンス」が、サザンとも音楽とも全く関係の無い連中にまで広く流布し、あれほど大きな「問題」になってしまったのも、紅白で演奏したこの歌に対する、これまた鬱陶しい連中どもの「都合の良い解釈」があってこそのものだろう。

そして、昨日のラジオ番組での桑田氏の10数分に渡る謝罪発言。聴きながら、ぼくらの世代のヒーローが自滅していく様を目の当たりにしてるかのような、すこぶる暗澹たる気分になった。紫綬褒章については、音楽とは異なる次元の話だから、本人が不適切であったと感ずるなら気の済むまで謝罪すればよいだろう。しかし、これだけは断言するが、紅白でのパフォーマンスと歌詞の意図については、一切説明すべきでなかった。小心なエクスキューズは、歌の生命をあっさり奪ってしまう。実際、ぼくにとっての「ピースとハイライト」は昨晩をもって完全に死んでしまった。この歌を健やかに育てていこうという意志が少しでもあったのなら、無粋な言い訳など一切せず、「歌こそすべて」という力強い沈黙のメッセージで対抗すれば良かったのだ。

同時にこうも思う。歌詞の一部、パフォーマンスの一部、映像の一部を切り取って、政治的なプロパガンダとして利用する行為は、歌、そしてアーティストに対する最大級の侮蔑であると。あの他愛も無いギャグとしか思えなかったちょび髭パフォーマンスを「ヒトラーに扮した安倍政権批判である!」と反政府運動の狼煙の如く持ち上げた者も、「許しがたい反日だ!」とヒステリックに糾弾した者も、共に、音楽のことも、サザンのことも何一つ理解せず、愛してもいないであろうし、そのような輩こそ、音楽の敵として排斥されるべき存在ではないかとさえ思ってしまうのだ。

憎しみを乗り越えて

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若い人にお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

ロシア人やアメリカ人、
ユダヤ人やトルコ人、
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
黒人や白人、
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、
たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

民主的に選ばれたわれわれ政治家にも
このことを肝に銘じてさせてくれる諸君であってほしい。
そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
(1985年5月8日 ヴァイツゼッカー西ドイツ大統領の敗戦四十周年記念演説より)

新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説 (岩波ブックレット)/岩波書店
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奪い合うのに慣れ過ぎた世界に生きていても

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1月31日。前日の雪とは打って変わっての抜けるような晴天であったが、気分は重い。同世代の、優れた仕事を積み重ねてきた誠実なジャーナリストが遠く異国の地で囚われの身となっている。もしかすると、既に殺されているかもしれない。スマホに新しいニュースが配信される度に心臓が早鐘を打つ。そして何も進展が無いことを知り、少しだけ安堵する。そんな不安定な気分を抱えながら、渋谷へと急ぐ。南口から歩いて5分程の場所にあるオフィスビル。何時の間にやら「日本最古の現役音楽プロデューサー」というあまり有難くない(であろう)称号を授かってしまった牧村憲一氏、そしてマスヤマコム氏が主催するシークレットライブがここで開催されるのだ。エレベーターで2階に上がると、そこは某IT企業のオフィス。ビジネス机が並ぶ職場然としたスペースの一角を即席のライブ会場に仕立て上げている。まさに「シークレット」の名に相応しいシチュエーションではないか。

このライブ、「music is music」と銘打ち、今回で2回目の開催となる。それにしても、シークレットぶりが徹底している。応募時点では、会場も出演者も「秘密」。会場こそ開催数日前に教えてもらえるが、出演者は当日行ってみるまで分からない。そこは、ポップスのソムリエでもある牧村氏のセンスを信頼して、全てを委ねるしかない。まぁそんな大げさなことを言わずとも、入場料がワンコイン500円のみと聞けば、主催者側の儲け度外視の心意気と清々しいまでの誠実さが伝わってくるのではなかろうか。

そして、この日のライブは本当に素晴らしかった。出演者は2組とも、自分にとっては未知のミュージシャンであったが、心底出会うことができて良かったと思える音楽であった。トップバッターの大久保初夏さんは、22歳のうら若きブルース・ガール。唸るようなブルースギターを弾きながら、とても良く通る美声で歌う。その姿は、まるで和製ボニー・レイットのようであったと書いたら、ご本人は気を悪くされるだろうか。ベースの芹田珠奈さんもオオッと見入ってしまう程、迫力満点のベースラインを繰り出し、特に、ブルースでチョッパーがパキパキ鳴るというのが新鮮で、若い世代ならではの自由で柔軟なセンスを感じた。今はカバー曲中心に演奏しているようだが、今後はいかに良いオリジナルを書いていけるかが課題か。ドブルースだけでなく、ボニー・レイットの「Thank You」のような重厚感あるバラードナンバーをものにすれば、世界がぐっと広がると思う。

2組目は、Akeboshiこと明星嘉男さん。ラルフ・マクテルにエレクトロニカをまぶしたかのようなブリティッシュ・フォークの香り漂う良い曲、良い演奏。これは大きな発見であった。もう10年以上活動している実力派のミュージシャンとのことだが、不覚にもぼくは昨日までその存在を知らなかった。特にアコースティックギターの流暢なスリーフィンガーと英国調のメロディが美しい「Seeds」、そして、ギターとカホンをバックに歌った後、その映像と音声を再生しながら、ピアノとヴォーカルをさらに重ねていく「Peruna」が素晴らしかった。バックの白い壁面に、客席の様子がゆっくりと右に移動しながら映し出される。それは、5分前のぼくたちの姿。音楽を聴くこと以外、何もすることのできない無力なぼくたちの顔、顔、顔。そして、Akeboshiは歌う。

  埋め立てられた池の上を 飛び続ける鳥の群れは
  戻る場所のない空で 何を思っている

  ずっと見捨てないよ
  奪い合うのに慣れ過ぎた世界に生きていても

気分の重さは変わらない。世界情勢も明るさは見えない。しかし、ここで彼が提示した音楽は、紛れも無く2015年の今の空気をすくい取ったものであった。そこに強く共感する。そして、このような素晴らしい音楽との出会いの機会を与えてくれた牧村・マスヤマ両氏に感謝する。

◆◆◆
今朝、ジャーナリストの後藤健二さんが卑劣な「イスラム国」に殺害されたとの報せが入る。残された家族の心痛を思うと胸が押し潰されそうになる。心よりご冥福をお祈りするとともに、今後、憎しみが報復の連鎖に繋がらないことを切に願う。


◆Akeboshi - Seeds

◆Akeboshi -Peruna

更新休止のお知らせ

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いつもご訪問いただき、ありがとうございます。
諸般の事情により、4月末まで更新を休止させていただきます。
5月上旬には、中断していたフォークゲリラの連載も再開する予定ですので、
その頃、またご訪問いただければ嬉しいです。

管理人 nyarome007より

デモをするだけで平和が来るなんて甘い夢などもっちゃいないさ

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SEALDs


数か月前、ぼくの身の回りで唐突に起こった極私的な出来事は、もしかすると40年超生きていれば誰もが等しく経験する、至って平凡で日常的な些事なのかもしれない。だから、気が滅入るような湿っぽい話はすべて省略する。今言えるのは、ただひたすら疲れた、ということだけ。

とはいえ、この間、ずっと俯き、悩んでいたわけではなく、音楽も聴いていたし、映画も観た(ビル・ポーラッドの「ラブ・アンド・マーシー」は最高!)。何より、仕事がクレイジーな忙しさだったため、平日の日中は、諸々の問題をすべて忘れることができた。しかしこんなことに感謝するとは、つくづく社畜だのう。

極私的な問題は、日常生活と密接不可分であるはずの政治への関心すら軽く吹き飛ばしてしまう。新聞やニュースにほとんど目を通さない日が続き、さすがにこれはヤバいぞと感じ始めたころ、国会前がまた騒がしくなっていた。

  議員はいつでもごまかしばかり
  法律で真理がかくせるものか
  そりゃデモをするだけで平和が来るなんて
  甘い夢などもっちゃいないさ

  (明日なき世界 訳詞高石友也)

こういう半世紀近く前の歌がしっくりくるとは、時代が一回りも二回りもして、回帰したのではなく、より酷い状況になってしまったということ。憲法違反の法律が堂々と国会で可決される時代が来るとは、誰が予測していただろうか?

そして今日、手書きのプラカードを持って、国会前デモに足を運んだ。小雨交じりの曇天の中、本当に沢山の人が集まった。警察の規制線が決壊し、抑圧された行き場のないエネルギーが爆発するかのように、人々が国会前の広い車道に溢れ出た。一瞬そこに2014年秋の香港市の幻影を見た。幻惑された視界に、国会正門前で声を嗄らしてコールを続けるSEALDsの若者達の姿が映り、それはまるで、雨傘革命を牽引したジュシュア・ウォンやアグネス・チョウのように見えた。

しかし、そこまでだった。大勢の人に揉まれ、プラカードを高く押し上げ、叫ぶようにコールしながら、一方で急激に冷めていくもう一人の自分がいることを感じていた。ここには自由闊達に討論できる小さな人の輪が無い。同じ思いを持った仲間と高揚した気分で歩く開放的なデモウォークが無い。ユーモアと風刺に満ちた人間臭いシュプレヒコールが無い。それらはすべて、2012年の6月以降、どこかに置き忘れてしまったもののように感じた。ぼくたちは、まるで立錐の余地もない夏フェスの会場で、同じように腕を突き上げ、同じようにジャンプする観客のように、同じように単調なコールを繰り返し、同じようにプラカードを持ち上げ、しかし、そこにいる誰ともコミュニケートすることができないでいる。

誰のせいでもない。ぼく自身の問題であることは十分に認識している。それでも、この気持ちが湧き上がってくることを抑えることができない。批判を恐れずに言うなら、もはや、デモの「頭数」にとどまっているようでは駄目なのだ。ぼくたちに今必要なものは、次の選挙の受け皿となる全く新しい政党だ。文化人は、学者は、何故そのための準備をしない
? ぼくも、あなたも。

デモと子供

Folk Songs(3) ケサラ

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決して好きな歌ではなかった。西村義明作詞版の「ケサラ」は、今から30年程前、何度か耳にしたことがある。青白い優等生の弁論大会のような平和集会で。生真面目に破綻した反核集会で――。
「僕たちの人生は/平和と自由を求めて/生きてゆけばいいのさ」という下りがたまらなくイヤだった。言葉の使い方があまりにも陳腐だと思った。そして「平和と自由を求めて生きていく」とは、なんて不自由な生き方なのだろうと思った。

グェン・バン・チョイ、ジョー・ヒル、ビクトル・ハラ。権力に虐殺されたヴェトナムやアメリカの闘士達の名前が唐突に引用される下りもただただ違和感しかなかった。その嫌悪感や違和感の理由を今ならこう説明することができる。それは、この歌が「運動の中で生まれた歌」ではなく、「運動のために作られた歌」だから。「運動の(ための)歌」は、音楽にとって“死”以外の何物でもないと固く信じていた。

しかし、8月30日の国会前デモで、自由の森学園の高校生達が歌った「ケサラ」は、そのような屁理屈を全く無意味なものにしてしまった。彼ら、彼女たちは、あざとさすら感じさせた「運動の(ための)歌」を「運動の中で生まれた歌」に転化させ、のみならず、己自身の魂の叫びへと昇華させた。この時、「ケサラ」は、正しくフォーク・ソング、すなわち、民衆の歌になった。歌にとってこれほど幸福な瞬間はあるだろうか。

Save The Country

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さあ みんな 

さあ 子供たち

光輝く川においで

そこで洗い清め

悪魔を倒そう

あの極悪人を倒そう

 

さあ みんな

さあ 子供たち

光り輝く川にはキングがいる

かけがえのないキングは

人々が歌うことを愛した

清い人々は歌った

We Shall Overcome”を

 

内側から湧き上がる激しい怒り

その怒りは 栄光のゴールへと私を導く

もう戦争のことなど学びたくはない

 

人々を救え

子供達を救え

この国を救え

Laura Nyro/Save The Country 拙訳)


安保関連法投票行動

安保関連法投票行動

東京新聞9月20日朝刊「安保関連法の本会議投票行動」


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