くどいようだが、繰り返し書いておこう。ぼくの定義するFolk Song(フォークソング)とは、民衆による民衆のための歌を指すものであり、スタイルとしてのフォークソングではない。だから、ボブ・ディランは、弾き語っていようが、電化しようが、彼独特のレジスタンスが潰えず、その言葉がぼくらの心に響く限り、依然としてフォークシンガーであり続けているし、さらにいえば、ローリング・ストーンズの60年代後半の諸作、例えば、Street Fighting Man、Salt of the Earthなどは、インテリジェンス溢れる悪ガキどもが英国労働者階級の目線に寄り添うことで獲得した最良のFolk Songと断言する。
スター・クラブの「フロントライン」もまた、80年代前半の中曽根政権下で、多くの人々が抱いていた右傾化への漠然とした不安を激しいビートに乗せて表現した民衆の歌、すなわち、これもまた僕の定義では優れたFolk Songとなる。当時、アナーキーがテクニカルな方向に舵を切り、疾風迅雷の勢いであったルースターズが大江慎也の不調で失速していく中、一方でスターリンをはじめとするハードコア・パンク勢にはいささかの抵抗を感じていた少年少女にとって、この歌は、ポップで分かりやすく、何よりカッコ良かった。「The Unknown Soldier(無名戦士)」との両A面シングルは、1983年のインディーズチャートで1位を獲得。今聴くと直截的な表現に若干気恥ずかしくもなるが、それでも、極めてプリミティブな怒りの叫びは2015年を生きるティーンエイジャーにも有効と信じたい。
Folk Songs(4) THE STAR CLUB - FRONT LINE
「新9条論」にきっぱりと反対する
これに触れた者の少なからぬ部分が、諸手を挙げて(もしくは若干の懸念を表しつつも)賛同し、昨日まで後生大事に奉っていた日本国憲法第9条を古臭く時代遅れな遺物のごとくいとも簡単にうち捨て、一方で魅惑的な新しい恋人でも見つけたかのように、いそいそと改憲派へと宗旨変えしてしまうのだ。
ウイルスの発生源の一つである映画監督の想田和弘氏はこう主張する。「(戦争)法案が通った暁には、9条に関する限り、もはや『護る』ものなど何もないのである。護るべきものは、すでに死んでいるのだから。私たちは、9条の亡骸とともに心中するわけにはいかない。私たちは、9条の亡骸を手厚く葬るとともに、心機一転、『新しい9条』を創って、自衛隊の行動に歯止めをかけ、制御する手立てを講じなければならない。『9条護憲派』は『9条創憲派』に生まれ変わらねばならないのだ。」(マガジン9・映画作家・想田和弘の観察する日々第32回「憲法9条の死と再生」)
安倍某を「馬」「鹿」と評したSEALDsの奥田愛基君に倣うなら、この言説にかける言葉はただ一つ。
「バカか、お前は」。
想田氏は、これが平和を守る唯一の方策とでも言わんばかりに「新9条」を熱っぽくプレゼンし、道行く護憲派に「お前も創憲派に生まれ変われ」と善意の押し売りをしているが、何のことはない、その中身は保守の陣営が半世紀以上前から唱えていた改憲論、もしくは「普通の国」論と何ら変わりはないのである。問い質したい。あなたにとっての9条とは、そんなに軽いものだったのか。先輩達が戦後70年、人生の重みをかけて必死で守ってきた旗を、憲法違反の甚だ馬鹿げた法律が成立したことをもって、やすやすと下ろしてしまっていいのか。
もちろん、想田氏をはじめとする新9条派にも言い分はあるだろう。9条2項があまりにも現実ばなれしているから、安倍の“壊憲”を許してしまったのだ。ならば、「専守防衛の自衛隊」を憲法上明確に位置付けて、時の政権による恣意的な武力行使に歯止めをかけるべきではないか。なるほど、彼らが言わんとしていることは、戦争を遂行するための壊憲ではなく、積極的に平和を守るための創憲であり、その趣旨と平和に対する(彼らなりの)真摯な思いは十分に理解できる。しかしこの主張にも、ぼくは次の2つの理由から、きっぱりと反対を表明する。
1点目は、9条はいまだ死んでおらず、安保法が成立した今こそ、護憲派は、戦前回帰勢力へのカウンターとして、9条の崇高な平和主義の旗を高く掲げるべきと考えるからだ。憲法前文と9条の関連性から鑑みるに、9条を現実に合わせるのではなく、現実を9条に近づけていくこと、すなわち、武力によらない国際平和の実現のための不断の努力が日本国民には求められており、だからこそ、9条は憲法前文と合わせて人類史的に意義のある条項なのである。
そもそも、狭い国土に原子力発電所を44基も抱える日本において、戦争を前提とした国防軍の配備などちゃんちゃらおかしいのだ。原発1基をミサイル攻撃されただけで壊滅状態になるような脆弱な国における軍備とは一体どういうものなのか、どのような意味を持つのか、ぼくにはさっぱり意味が分からない。今、護憲派がなすべきことは、安保法を速やかに廃止し、現実を9条の理念に近づけるための考え抜かれたアクションであろう。
憲法第9条の政治的な位置付けについては、故丸山真男教授が実に的確に指摘されており、これに付け加える言葉は無いように思う。やや長くなるが、以下、教授の論文から引用する。文中の「自衛隊」を「安保法」に置き換えると、まるで今の時代に向けた、過去(半世紀前)からの警鐘のようではないか。
現在一種の投げやり的絶望論があります。第9条などすでに空文化しているではないか、誰が見ても戦力としか思えない武装をした自衛隊がすでに出来てしまった以上、もう第9条などといっても意味ないではないか、という絶望論です。これは既成事実に弱く、すぐ敗北感にとらわれて諦めてしまう心理からして、原則的には再軍備に反対な人々のなかにもひろがり易い考え方です。(中略)
(引用者注:第9条の)政治的宣言というものを、どういうふうに現実の政策決定と関係づけるかという論理がやはり大事ではないかと思うのであります。たとえばアメリカ憲法の修正箇条第14条は合衆国の一切の市民にたいする平等な保護をうたい、さらに第15条は、人種、体色に基づく投票権の拒絶や制限を禁止しております。ところが、それからほとんど百年近くにもなるのに、依然としてこの人種平等に反する現実が行われているわけであります。しかし、アメリカの歴史のなかで、そういう現実があるのだから、この条項は無意味だ、ひとつこの条項を改正して人種不平等をはっきり規定しようではないかというような提案が政府や議会にあったということは聞いておりません。そうして最近の公民権法案まで、現実の歴史は非常に長い歩みではありますけれども、ともかくその歴史は、この合衆国憲法に明記された規定が政府の政策決定を方向づけて来たこと、を物語っております。
要するにここで私が申し上げたい点は、第9条はマニフェストだというだけでは、きわめて多義的であり、それを現実の政策決定への不断の方向づけと考えてはじめて、本当の意味でオペラティヴ(現実の中にあって現実を動かす一つの契機となっている理念―引用者注)になるということです。つまり、自衛隊がすでにあるという点に問題があるのではなくて、どうするかという方向づけに問題がある。したがって憲法遵守の義務をもつ政府としては、防衛力を漸増する方向ではなく、それを漸減する方向に今後も不断に義務づけられているわけです。根本としてはただ自衛隊の人員を減らすというようなことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積重ねてゆき、すすんでは国際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行うことを政府は義務づけられていることになる。したがって主権者たる国民としても、一つ一つの政府の措置が果たしてそういう方向性をもっているか、を吟味し監視するかしないか、それによって第9条はますます空文にもなれば、また生きたものにもなるのだと思います。(「憲法第9条をめぐる若干の考察」1965年)
2点目は、タイミングの問題である。国会内における護憲勢力もしくはリベラル左派の衰退甚だしい現状において、新9条の提案が結果として誰を利するものとなるのか、この動きをほくそ笑んで見ているのは誰なのか、あえて書くまでもないだろう。既に自民党は、来年夏の参院選で憲法改正を公約に掲げることを明言している。あの危険極まりない自民党憲法草案の実現が今まさに現実的な政治カレンダーに乗ってきたのである。この最悪のタイミングの中、まるで新しい発明でもしたかのように嬉々として新9条を提唱し、自ら改憲のムード作りを買って出るとは何たる愚の骨頂、平和主義者の戦略としては、時が時なら利敵行為として最高刑罰に匹敵する失策と言わざるをえない。
蛇足を承知で、最後にあえて書いておきたいことがある。それは、今回の「新9条論」に対し、護憲派からの意見表明が極めて乏しいことである。これは本当に残念なことだ。憲法9条と平和を守る闘いを非妥協的に続ける彼らや彼女たちが、何故、「仲間」ともいえる想田氏や東京新聞が提唱する「新9条論」にはだんまりを続けているのか? 護憲勢力の分裂を恐れているのか、もしくは、リベラルの「有名ブランド」を敵に回したくないのか、いずれにせよ、情けない。仲間同士での忌憚のない批判や議論を放棄した運動は、無力な仲良しゴッコに過ぎない。そもそも、忌憚ない批判や議論をして関係が決裂してしまうような相手なら、端から仲間でも友人でも無いのである。馴れ合いの平和主義者は、この点を肝に銘ずべきだろう。
――69年目の日本国憲法公布記念日に。
One Night Stand
ヘイトスピーチに憎悪の言葉で対抗しても、結局のところは憎しみが増幅されるだけで何の解決にもなりはしない。そんなことは、路地裏の安アパートで痩せこけた青年達が震えながら決起した革命戦争、すなわち、あの陰惨な党派間の殺し合いの末路を知っている50代以上の人間なら、分かりすぎる程分かっていた話ではないのか。
一方で、カウンター側のヘイトスピーチの向こう側には、レイシスト達の幾百、幾千という凄まじい悪意と殺意に満ちた言葉が氾濫している現実も忘れてはならない。少なくとも、新潟日報の元報道部長は、それに無関心でいることなく、また、第三者として傍観するでもなく、新宿の路上で、ネット空間で、年甲斐も無く、あの痩せこけた青年のように震えながら闘ったのだ。闘い方は最悪であったが――。しかし、何もしなかったぼくには、彼を批判する資格は一切ない。
先週末、新宿三丁目のロックバー「Upset The Apple-Cart」で、そんなことを考えながらウオッカを飲んでいた。ジャニス・ジョプリンの「One Night Stand」は、マスターに教えてもらった。「これ、凄く良い曲ですね。ホントにジャニス?」「そう、死後発表されたヤツ。バックは、ポール・バターフィールドね。」 ぼくは、まるで初めてビートルズを聴いた少年のように、ジャニスの歌声に脳天をガツンと一撃され、すっかり心奪われてしまった。それが、この最低最悪な日々に咲いた一輪の花、もしくは、掃き溜めの鶴。生涯聴き続ける価値のある歌に今更ながら出会えたことが嬉しい。
◆Janis Joplin - One Night Stand
Folk Songs(5) I Wish I never Saw The Sunshine
フォーク・ソングの正しい有り様は、創作のみにてあらず、フォークロアの森に分け入り、絶滅寸前の歌を採集し、それを自分たち流に作り変え、現代の歌として蘇らせる作業も極めて重要であることは言うまでもない。いや、むしろ、後者こそがフォーク・ソングの真髄と言っても過言ではなかろう。その点において、現代のフォーク・ソングは、半世紀以上前に打ち捨てられた商業音楽の伝承及び蘇生に腰を据えて取り組んでもよいのではないか。まさか、アラン・ローマックスも、採集の対象がポップスであることを叱責はしまい。何より、ベス・オートン(Beth Orton)が20年前に成し遂げた偉業を見るがよい。彼女は、フィル・スペクターがロネッツ、すなわちヴェロニカ・ベネットへの偏執的な愛の発露として、緻密に構築し、過剰に音を重ね、美しいながらも狂気に充ち、結果、御蔵となった究極のウォール・オブ・サウンドを、プリミティブなアコースティックサウンドとして再生させ、次の世代にバトンを渡した。これこそが、現代のフォーク・ソングの正しい有り様であろう。
◆The Ronettes - I Wish I Never Saw The Sunshine
All The Young Dudes
さようなら、ぼくのロックンロール・スター。あなたの音楽は、ティーンエイジャーだったぼくに、変わっていくこと、進化することの素晴らしさを教えてくれた。出発点は、売れないモッド・バンドのヴォーカルだった。そう、確か、モンキーズのデイビーと同じ名前だったね。程なくして芸名をボウイに改め、ディランから多くを学んだフォークソング、リンゼイ・ケンプに師事したパントマイム、そして、あの煌びやかで淫靡なグラム・ロッカーへと変態していった。その後も、フィリーソウルからニューウエーブ、それから、大ヒットした堂々たる商業ロックの「Let's Dance」へ。あれが迷走の始まりだったか――。とはいえ、あなたは、常に同じ地点に留まることなく、絶えずメタモルフォーゼし続けた。それは、ミュージシャンとして極めて稀有で、尊いことだと思う。心底思う。
そして、何よりあなたを凄いと思うのは、グラム・ロック期の最高傑作とも言うべき「All The Young Dudes(すべての若き野郎ども)」を、あっさりと他人に譲ってしまう、その剛毅な男気だ。だから、ぼくにとってのデヴィッド・ボウイは、イアン・ハンターの歌声とともに、いつまでも輝き続けることだろう。ロンドンのスターマンよ、永遠に。
We Can Be Together ~ポール・カントナーに捧ぐ
ジェファーソン・エアプレインには特別な感情を抱かざるをえない。特にマーティ・バリンと共にバンドの創始者であり、機長(リーダー)でもあったポール・カントナーには。出会いは、ウッドストックのLPに収録されていた「Volunteers」だった。ヨーマ・カウコネンの痙攣するようなギターソロに痺れた高1のぼくは、これを完コピし、友人達に「どうだ、カッコいいだろ」と得意顔で聴かせたが、時は1981年、ヘヴィ・メタル全盛の時代にこのような前近代的なフレーズを有難がる者などいるはずもなく、「何だそれは、寺内タケシか?」と冷たい視線を浴びるばかりであった。しかし、それでもメゲず、ならばリズム・ギターも、と更なる完全コピーに挑むと、これがまたシャキシャキとした歯切れのよいカッティングで、弾いてみると実に気持ちが良いのである。この爽快なリズム・ギターを刻んでいたのがポール・カントナーであり、この時点で、彼は、ジョン・レノンに次いで、極私的ロック・リズムギタリスト殿堂入りを果たしたのである。
日本特有のドメスティックでガラパゴス化したロック観を後生大事に奉る内田裕也一派や近田春夫のようなアホ共には、恐らくは死ぬまで分からないことであろうが、ポール・カントナー、そしてエアプレインこそ、フォークとロックが地続きの存在であることを体現し、実践した偉大なミュージシャンなのである。日本でそれに該当する存在といえば、加藤和彦、細野晴臣、遠藤賢司であろうか。
本人は生前否定していたが、エアプレイン後期の作品に込められた過激とも言えるポリティカルなメッセージは、時代と同伴したロック・ミュージシャンとして、自らの立ち位置を明確に表明しなければ、いかなる言葉も欺瞞に満ちたものになってしまうという、彼自身の潔癖さと誠実さの表れではなかったのか。だからこそ、彼の「団結しよう(We Can Be Together)」という叫びは、約半世紀経った今も、人々の心に響き、血をたぎらせるのだ。
そのポール・カントナーが、28日、多臓器不全と心臓発作によりサンフランシスコの病院で死んだ。74歳。彼の魂が安らかならんことを祈るとともに、追悼の意味も込め、9年前の記事「You don't need a weather man」を再掲載する。
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僕は支配人を呼んで言った
「ワインを頼む」
彼は言った
「手前どもでは、1969年以来、スピリットは切らしております」
(イーグルス/ホテル・カルフォルニア)
しかし、ロックのスピリット(精神)をいち早く切らしたのは、ドン・ヘンリー自身ではなかったのか? ぼくは、思わせぶりかつ難解な歌詞でカムフラージュしつつも、実のところは「ウッドストック、ラブ&ピース、あぁ、あの頃ぼくは若かった」と人生に疲れた老人が場末のバーでぼやいているようなこの歌を昔も今も好きになれないし、多分これから先も嫌悪し続けるだろう。
「闘わなかった者、敵前逃亡した者には、懐古する資格さえない。いわんや批判などもってのほかだ。」
ぼくがこれから何を書こうとしているのか、そしてその内容についてはどう解釈してくれても構わない。ただぼくが言いたいのはこの一点だけ。最も闘った者だけが、「そのこと」について語り、批判する資格があるのだ。
1970年3月6日正午少し前、NYグリニッジ・ヴィレッジの古い赤煉瓦造りの家が突然爆発した。爆発はその家を倒壊させ、通りの向い側の建物の1階から6階までの窓を破壊し、また隣家の壁を貫通して居間まで続く大穴をあけた。焼け跡からは、3人の若者の死体が見つかった。ダイアナ・オートン、テッド・ゴールド、テリー・ロビンズ。彼らはコロンビア大学紛争(後に「いちご白書」として映画化された)の闘士(*1)であり、また、極左学生組織「ウェザーマン」のメンバーであった。つまり、この家は、彼ら「ウェザーマン」派の爆弾工場だったのだ。
ジェファーソン・エアプレインのポール・カントナーは、この不幸な誤爆事件後、サンフランシスコのフィルモアで「言葉と歌が自然と溢れ出てきて」、ビル・グレアムのオフィスに駆け込み、それらを書き留め、そしてそれは次のような歌になった。
どんな気がする
兄弟が撃ち殺され
セメントと鋼鉄の檻に葬られたら
去りゆく子供たちのために歌おう
ダイアナのために歌おう
月の狩猟の女神 地球の女
ウェザーウーマン ダイアナ
爆死したダイアナ・オートンに捧げられたこの歌「Diana」は、カントナーとグレース・スリックのデュオアルバム「Sunfighter」(1971年)に収録された。ジャケットは、彼らの愛娘チャイナ。それは、まるで、志半ばにして斃れたダイアナの生まれ変わりのようにも見える。
テロリストを非難することはたやすい。そして時代遅れな“コミュニズム”の思想を断罪することも。しかし、カントナーがこの時期、ウェザーマン派にシンパシーを抱いていたであろうことを誰が批判できるだろう(*2)。エアプレインが69年に発表した傑作アルバム「Volunteers」で、「団結しよう/アメリカ帝国主義からみれば ぼくら全員無法者/生き残るために 盗み 騙し 嘘をつき 偽造し 畜生! ヤミの取引をする」(We Can Be Together)と歌ったカントナーは、自ら志願して“心やさしき無法者”になろうとした。そう、彼は最もよく闘い、一時最も遠くまで行ったロック・ミュージシャンだった。ぼくはここで最初の命題に戻る。「闘わなかったもの、敵前逃亡したものには、懐古する資格さえない。いわんや批判など・・・」― ぼくは黙るしかない。
「ウェザーマン」は、ボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の一節(You don't need a weather man/To know which way the wind blows)をとって命名された。ロックは時代の共犯者だった。だから、落とし前もつけずに勝手にスピリットを切らしてもらっては困るのだ。(2007-11-11)
<9年後の注釈>
※1 ダイアナ・オートンはSDS(学生民主同盟)の活動家であったが、「いちご白書」の舞台となったコロンビア大学紛争には関与していない。
※2 これは、いささか筆が走りすぎた。カントナーは、ウェザーマン派及び過激な爆弾闘争にシンパシーを抱いていたわけではなく、ダイアナ・オートンという名家に生まれた子供好きの心優しい女性が、世の不正と抗う中で、爆弾テロすら容認するゴリゴリの過激派となった事実に衝撃を受けたのであろう。ダイアナ・オートンの数奇な生涯は、UPI通信の敏腕記者トマス・パワーズにより「ダイアナ ある女性テロリストの死」(Diana: The Making of a Terrorist)として出版され、ベストセラーとなり、1971年度のピュリッツア賞を受賞した。
◆Jefferson Airplane - We Can Be Together (1969)
Folk Songs 番外編~座間三郎に夜明けは来るか?
彼とは新宿駅西口地下広場で出会った。時折しも、安保法制反対のデモで国会前が騒然としていた昨年の夏。原色花柄のヴィンテージアロハに破れたジーンズ、ボサボサヘアーに黒いサングラスという出で立ちで、大きなギターケースを抱え、不穏なはかりごとを内に秘めたテロリストのように、キョロキョロと周囲を見回しながら早足で歩く彼の姿は、いやが上にも人目を引いた。やがて広場中央の柱の前で足を止めた彼は、ギターケースを地べたに置き、やおら愛機を取り出そうとしたところで、数人の警官に囲まれてしまった。よくよく西口交番の官憲は、フォーク・ゲリラの呪縛に囚われているらしい。結局、数分の押し問答と極めて高圧的な職務質問の末、この哀れなテロリストは一音も奏でることなく広場から撤退せざるをえなかった。
彼の名は座間三郎。32歳。関西出身のシンガー・ソングライター。18歳からの10年間を京都で過ごし、そこで、関西フォークの始祖の一人、故藤村直樹氏に師事し、創作活動に励むとともに数多くのライブに出演する。その後、数年間の沈黙を経て上京。吉祥寺に居を構えてからは、武蔵野フォークの先達のスピリットに背を押されるが如く、また歌いはじめた。
彼の創る歌は、関西フォーク直伝のアイロニーに充ち、コミカルでバカバカしく、時にトゥーマッチかつグロテスクなテイストすら漂わせるため、主戦場でもある「フェスボルタ」の主催者ジョン・ヒロボルタ氏などは、「ラストサムライ・ 最後の全共闘フォーク・ゲリラシンガー」と名付け、愛情たっぷりに面白がる。確かに当たっている面もあるのだが、しかし、それは彼の一側面を形容しているに過ぎず、座間三郎の本質は、より普遍的で、そしてよりオーソドックスなフォーク・ソングにあるように思えてならない。無論、それはスタイルとしてのフォークではなく、ぼくが定義付けるところの、であるが。
例えば、「骨のうたふ」という8分間に渡る長尺のナンバーがある。タイトルを見てピンとくる方もいるだろう。太平洋戦争の終戦4か月前にフィリピンで戦死した若き詩人、竹内浩三氏の作品だ。座間は、この戦争の馬鹿らしさと悲しさを綴った乾いた言葉に、静と動を織り交ぜた独特なメロディーをのせ、それはプログレばりの壮大かつ劇的な展開をみせ、聴く者を圧倒する。何より、竹内氏の70年前の詩(ことば)を、現代の若者の心にも響く歌(ポップス)として再生させている点が素晴らしい。そして、それこそが、彼が“フォーク・シンガー”たる所以でもあるのだ。
一方で、彼は、とても美しいラブソングを歌う。特に10分近くも泣きすさぶように熱唱する「I Love You」は絶品。柄にもなく、と笑ってはいけない。それもまた座間三郎の真実の姿なのだ。中川五郎やPANTAを敬愛するのと全く同じ重さで、財津和夫や小田和正を熱く語る、そして、プロテストソングの本質はラブソングであることを本能的に理解し実践している、座間三郎とはそういう男だ。
さて、そんな座間三郎が日の目を見る時は来るのか。と論じる前に、彼の唯一のYouTube作品に少しばかり注文を付けたい。昨年1月の時事ネタ(ドンゾコ節)はさすがに賞味期限切れだし、レパートリーも「全共闘フォークゲリラ」といステロタイプに囚われるリスクが大きい。一刻も早く、座間三郎らしい新作を世に投げかけられんことを。そして、群れず、孤立を恐れず、現代(いま)を歌い続けたその先に、君の夜明けは必ずあるはずだ。一フォークソング愛好家として、心より健闘を祈る。
(一部、フィクションを交えて構成しています。)
4月に雪が降ることもある
プリンスの訃報は、22日の朝、通勤電車の中で知った。驚きはしたものの、さほどの感慨はなく、むしろ一向に収束しない熊本地震のことが気になり、スマホの画面は被災地情報へとスクロールされていった。思えば、1987年に発表された「Sign 'O' the Times」を最後にプリンスの新作は聴いていない。そんなぼくが、彼の死に際して、人生の恩人を喪ったかのごとく大袈裟に嘆いてみたり、半可通な音楽論をぶつことなどおこがましすぎてできるわけがないのだ。それでも、ぼくにとって、ある時期、プリンスが唯一無二の存在であったこともまた事実であり、それは、あのカラフルなジャケットが印象的な「Around the World in a Day」の発表をピークとする前後2年間程で、特に、1985年夏、当時居候していた飯田橋のマンションで、同じように共同生活をしていたバンドのメンバーと、飽きもせず毎日このアルバムを聴いていたことを思い出す。中でもとびきりポップでファンキーな「Pop Life」は、座右の銘にしたい位、好きな言葉、好きなメロディー満載の曲で、「誰もがトップになれるわけじゃない/でもポップに生きなきゃ人生まったくイカさないぜ」と歌われるサビのフレーズは、30年以上経った今も、時折ふっと頭の中でリフレインされることがある。残念ながら、今以てまったくポップに生きてはいないのだが。
実は、かなり以前にその当時のことを書いた記憶があり、過去記事を検索してみると、丁度10年前に書いた「極私的音楽ヨタ話77-06の旅」と題する全12回の連載記事がヒットした。大抵が削除したい欲求に駆られるため、基本的に過去記事は読み返さないようにしているのだが、今回は少しばかり懐かしく、ほぅこんなこと書いていたのかとぼんやり読み返していた時、意外なことに気が付いた。それは、1985年編の1話目(連載では「その8」)のFacebook シェアボタンのカウンターが何と1万越えしているのだ。
これは一体どういうことなのだろう? 何かの間違いではないのか? 謙遜するわけではなく、大した記事ではないのだ。しかも10年前に書いた文章である。Facebookを利用されている方で真相をご存じの方がいたら、是非教えてください。
今月発売された「『ビートルズと日本』熱狂の記録~新聞、テレビ、週刊誌、ラジオが伝えた『ビートルズ現象』のすべて」(大村亨著)は、資料収集のため毎週国会図書館に通いつめたという点に同志的なシンパシーを感じるし、大変な労作であることも認めるが、一方で存命している当事者への取材が皆無であり、独自の分析にも乏しく、結果として、ビートルズに関する新聞・雑誌等の過去記事のスクラップブック以上の価値を見出せないという点においていささか期待外れな代物であった。
それでも、幻の和製モッズバンド・ベスパーズ(※)が1966年6月、有楽町交通会館の屋上のビアガーデンで開催された「ビートルズ歓迎大会」で演奏していたこと(つまり、本当に存在していたのだ!)、また、1969年5月に訪英した小中陽太郎氏に、ジョン・レノンが新宿駅西口地下広場でのフォーク・ゲリラとの共闘を約束していたことなどは、歴史の廃棄物処理場に打ち捨てられたスポーツ新聞、週刊誌等を発掘したが故の新発見として大いに評価されるべきであろう。
「4月に雪が降ることもある ひどく落ち込むこともある」と、かつてプリンスは歌っていた。偽りの勝利なら、希望のある敗北の方がどれだけましなことか。残された時間は僅かしかないし、もう間に合わないかもしれないが、それでも最後のあがきをしなければ、悔やんでも悔やみきれない。今、自分に何が出来るのかを考えている。
※ 1990年刊行の「日本ロック大系1957-1979」において、故山口富士夫氏がザ・ダイナマイツの前身であるモンスターズ(1965年~66年)を振り返る中で次のように証言している。
――お客さん達っていうのはどういう人達なの?
山口 やっぱりいわゆるモッズ…モッズのはしりの連中とかね。まだでもカッコイイバンド他にもたくさんいましたよ。ベスパーズとかいうのもありましたしね。
悲しき国会前~それでもぼくはデモに行く
「6・5全国総がかり大行動」終了後の国会前(右手前が菱山南帆子さん)
かほどに無力感と絶望感に打ちひしがれる集会はいまだかつて経験したことがなかった。いや、誤解の無いように書いておかなければなるまい。集会の運営や登壇者のすべてが悪かったわけではない。ビートルズ来日の話から始まった御年80歳になる音楽評論家湯川れい子さんのスピーチは、竹を割ったように明快で大変勇気付けられるものであったし、SEALDs奥田君のスピーチは、相変わらずの晴々としたバカっぽさ全開(失礼!)で、これで院生大丈夫か?と余計な心配こそしたものの、「安倍さん、まだ弾は残っとるがよー!」と「仁義なき戦い」における故菅原文太氏の名セリフを引用した締めは、憎いほどキマっていた。そして、何より、菱山南帆子さんの若々しく元気一杯のコールは、集まった4万の人々のやるせない気持ちを一体化し、国会周辺に響き渡る巨大なシュプレヒコールへと昇華させた。
ぼくが、敗北と絶望を見たのは、登壇した国会議員の面々にだ。民進党の枝野幹事長などは、またぞろ「私達こそが本当の保守だ」などとほざき、参加者の失笑をかっていた。欧米におけるリベラル左派の凋落を見るがよい。彼らは一様に保守にすり寄り、自らの素性を隠蔽したが故に従来の支持者から見放されたのではないか。一方で、社会民主主義者を自認するバーニー・サンダースの躍進はどうだ。一本筋の通った左派―すなわち、自らの思想信条に誇りを持って行動できる真の社会民主主義者であれば、必ず支持する層がいる。政治家たるもの、断じて鵺(ぬえ)であってはならないのだ。
さらに言えば、現在の政党の在り様を固定化したままの野党共闘など、売れ残って硬くなった団子ほどの価値しかない。立憲主義の確立は勿論大切なことだが、一方で、正式な手続きを経て9条を改悪しようという勢力も一緒くたの“野合”では、全くお話にならないではないか。民進党の右派の連中など、選挙の間は大人しくしているものの、当選した暁には、改憲派としての素顔をさらけ出し、憲法改正の国会発議に必要な3分の2議席を補完することに甘美な喜びを見出すに違いない。
つまるところ、気骨のある学者や文化人や市民が結集し、既存政党を真っ二つにかち割って受け皿となる“新しい政党”を創り出せなかったことが、無力感と敗北感を増幅させる要因なのだ。残念ながら、小林節もぼくには鵺に見える。彼のかねてからの自論を知っている者としては、変節と転向の度合が激しすぎて、戸惑いしか覚えない。どこまで信用してよいものか、真意を図りかねているというのが正直なところだ。
悲観的な話になった。では、お前はどうするのだ?という厳しい問いかけが匕首のように首筋に突きつけられていることを実感する。震えながら答えよう。まずは、当たり前の話ではあるが、候補者一人一人の主義主張を十分に吟味した上で、よりマシな方に投票する。その際、安保法制及び憲法改正に反対か否かが大きな判断のポイントになることは言うまでもない。そしてもう一つは、無力感に苛まれつつも、挫けずに、路上で意思表示し続けることも重要だ。確かに、プラカードを掲げ叫んだところで、世の中何も変わらないし、ガス抜きにすぎないのではとの懸念もあるが、それでも数は力である。これは紛うことなき真実だ。もし今日の集会に、4万ではなく、40万の人々が集まっていたら、世論の風向きは変わったかもしれない。(この点において、かつて頭数批判をした自分を厳しく自己批判する。)
散会後、ステージで帰路のアナウンスをする菱山さんは、心なしか疲れて見えた。もしかすると、彼女の頑張りはこのまま報われることなく暗い時代の中で遭難してしまうかもしれない。この次の集会もまた、無力感と絶望感に打ちひしがれる結果に終わるかもしれない。それでも、彼女は、彼らは、路上に立ち続けることだろう。何故なら、それこそが、私たちの生きている証だから。
Folk Songs(6) Lost In My Mind
米国シアトルを拠点に活動するインディ系フォーク・ロック・バンド、ザ・ヘッド・アンド・ザ・ハート(The Head and the Heart)が、この秋3年ぶりのニューアルバムを発表するという報せに一瞬胸躍らせつつも、まるで重力が半減したかのごとく軽く薄味な仕上がりであった2ndアルバムにいたく失望した身としては、期待半分、不安半分といったところでアップされたばかりの新曲を試聴してみると、これが、さらに重力が衰えて、今やフワフワと空中浮遊してしまいそうなくらいスーパーライトな出来栄えなのである。冬の雨に打たれ、重く垂れこめた黒雲を、ドン・キホーテよろしく両手で押し上げようと奮闘していたジョナサン・ラッセルはもうここにはいない。彼は今やリゾートの達人のようになってしまった。
5年前の彼らは、フレッド・ニール、トム・ラッシュ、デイヴ・ヴァン・ロンクといった米国民謡の先人達の血脈を受け継ぎ、それらを混合し、オリジナルな言葉とメロディーで勝負していた点において、正しくフォーク・バンドであった。1stアルバム収録の「Lost In My Mind」は、ルーツミュージックへの敬意と、2010年代を生きる若者達の暗澹たる心象風景をミクスチャーした佳曲。この地点に彼らが戻ることはないのだろうか。
グッドバイからはじめよう
~或いは「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう(後編)」~
公の場で政治的な見解を表明するのは、しごく勇気のいることだ。右だの左だのとレッテル貼りされ、疎んじられ、これまで築き上げた人間関係を壊してしまうのではないか。反対者から猛烈な批判や中傷を浴びるのではないか。そして何より、己の生半可な知識で政治に口を出す資格があるのだろうかという畏れ、たじろぎ、怯み・・・、これらの感情が入り混じり、それは神の御手のように重くのしかかり、開きかけた口を固く噤ませてしまう。
どうしてかくも気が滅入るような逡巡を経てまで、政治のことを語らねばならないのだろう。自分一人が熱くなったところで世の中が良くなるわけでもなし。むしろ周囲の雰囲気が悪くなるばかりではないか。ならば、余計な事は口にせず、昨日観た映画やサッカー、もしくはレアな中古レコードやラーメンの話でもしていた方が楽しいし、畢竟それが賢い生き方というものだ。黙っていよう。目を背けていよう――。その時、人は深刻な思考停止状態に陥る。何故、映画やサッカーや中古レコードと同じ地平で政治の話をしてはいけないのか。濃厚な豚骨ラーメンをたらふく食べた後の得も言われぬ至福の満腹感と若干の罪悪感の延長線上に現政権への嫌悪感が存在していてはいけないのか。そんなことすら自問自答できぬ程、ぼくたちの脳は手懐けられ、束縛され、絶望的に破壊されてしまったのか。
1970年代前半のジョン・レノンは、かくの如き事なかれ主義とは全く無縁であった。今、世の中で起こっていることを素早く歌にし、大きなものにノーを突きつけることに一切躊躇しなかった。歌が陳腐化するとか、暗喩に乏しく芸術性に欠けるとか、保守的なビートルズファンが離れるとか、そんなケチなことはおよそ考えなかった。恐らくこの時期のジョンにとって、歌は、ストリートで投擲される石礫や火炎瓶と同義の、戦争や差別や弾圧と闘うための強力な武器であった。そして、彼はそれを徹頭徹尾、非暴力的にやり遂げるために、歌という手段を選んだ。
ジョンとヨーコが1972年6月に発表したアルバム「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」がいまだにぼくの心を震わせるのは、聴く度に彼のそのような“覚悟”を感じるからだ。いみじくもジョン自身「歌で伝える、という点が異なるだけで、ぼくたちはジャーナリストのようなものだ(*1)」と述べていたとおり、収録曲は、さながらタブロイド紙の如く、特定の事件や人名――英国の北アイルランド政策、投獄されたブラックパンサーの女性指導者、アッティカ刑務所の囚人暴動など――で溢れ、それらに対する彼の意志が敢然と表明される。これは、アーティストにとって極めてリスクの大きい表現方法だ。現に批評家連中からは手厳しい評価を受けた。なるほど、特定の出来事の記述や政治的主張は、歌を加速度的に時代遅れにしてしまう側面があることは否定しない。そして、天性の詩人であるジョンであれば、かような直接的な表現は避け、暗喩で暈すことなどいとも簡単にできたであろう。しかし、彼は敢えてそうしなかった。何故なら、歌を武器にして闘いの場に身を置くことを決意したからであり、そうであるが故に、暗喩で誤魔化すことなく、誰にでも分かる言葉で己の立ち位置を明確にしておく必要があったのだ。
そもそも、歌にメタファーや言葉の多義性が必要だなどと誰が決めたのだ。日本でもやたらとそういう「分かったようなこと」を持ち出して、高田渡氏の「自衛隊に入ろう」や中川五郎氏の「大きな壁が崩れる」などのプロテストソングを執拗に攻撃し貶める音楽ライターがいるが、ぼくに言わせれば、そういう輩は「うた」の本質というものを全く理解していない。卑しくも音楽業界のおこぼれで飯を食っているのなら、少しはフォークソングの歴史を勉強しろと言いたくなるが、まぁ、この手の連中は不勉強な上に独りよがりな思い込みが激しいので何を言っても無駄であろう。殺人事件や権力者への揶揄といった(三面記事的な)最新ニュースを題材としたブロードサイド・バラッド、或いは、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの寂しい死」や「ハリケーン」の例を挙げるまでもなく、「うた」本来が持つジャーナリスティックな機能を軽視すべきではないし、政治を一切排除した「うた」こそ、実は極めて政治的であるというパラドックスに気付くべきであろう。
ジョンの政治的な季節は決して長いものではなく、1972年11月7日、米大統領選挙でリチャード・ニクソンが圧倒的な得票で再選を果たした夜、ひとまず訣別の時を迎えた。挫折感や無力感もあっただろうが、それ以上にジェリー・ルービンをはじめとする反体制活動家の仲間内でいがみ合い中傷し合う陰湿な左翼体質への失望感が彼を政治運動から遠ざけたように思う。しかし、そのことをもって、彼の闘志が潰えたわけではない。ニクソン再選の1年前、ジョン・シンクレア支援コンサートで行ったスピーチにこそ、ジョンが生涯抱き続けたであろうファイトの真髄があるのではないか。
「無関心でいる場合じゃないんだ。ぼくたちには何かやれることがある。フラワー・パワーはダメだった、って言うやつもいる。そう言われて、で、何だってんだ? もう一度はじめればいいんだよ(*2)」。
ぼくたちも、もう一度はじめればいいのだ。
*1、*2「革命のジョン・レノン: サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」(ジェイムズ・A・ミッチェル著、石崎一樹訳)より引用
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兵士A
3・11以降の残酷に切断された日常を詩情溢れるポップスに昇華させた傑作アルバム「リトルメロディ」以来4年のブランクを経て発表された七尾旅人の新作は、昨年11月に渋谷で行われた特殊ワンマン「兵士A」のライブ映像作品。「近い将来、数十年ぶりに1人目の戦死者となる自衛官、または日本国防軍兵士」である兵士Aに扮し、3時間、MCも拍手も歓声もない張りつめた舞台空間で、ガットギターとサンプラーと梅津和時のサックスのみというミニマムな楽器編成にて戦後(過去)~戦前(現在)~戦中(未来)を生きる市井の人々のおよそ一世紀に渡る物語を綴る。それは、1945年の敗戦から現代まで日本が辿ってきた道程を父親世代の視点で回想することから始まり、兵士Aの平和な少年時代を象徴する自転車のベルが電子音の耳障りなノイズで掻き消されると、ショッピングモールでの恋人達の語らいは「もうすぐ戦争が始まる 買い物を済ませよう」と不穏な様相を帯び始め、どこかの国に派兵された兵士Aは少年兵を殺戮し、自らも戦死、やがて日本の国土全体が戦火に覆われていく――。旅人は、この絶望的に暗鬱なストーリーを、イマジネーションに富んだ豊潤な言葉と、美しく静謐なメロディーでさながら水彩画の如き透明な感触をもって描き出す。決して告発しないし、抗議もしない。だから、これは、フォークソングでもプロテストソングでもない。正気と狂気の狭間をたゆたう幾千、幾万もの“兵士A”とこの国の行方を詠った壮大な叙事詩なのである。「うた」は、兵士A以前と以降で大きく変わってしまうのかもしれない。
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風街とやみくろ
松本隆氏が、数年前に東京を離れ、神戸、そして、現在は京都で暮らしていることを、今月号の「月刊京都~音楽の街、京都」に掲載された氏の巻頭インタビューで知り、とにかく驚いた。松本隆氏ほどぼくが思い抱く東京のイメージに合致する人はいないからだ。青山生まれの生粋の東京人であり、東京をテーマに数多くの名作を創り、時代の最先端を、華やかな芸能界を、あのバブルの狂乱の時をスマートに疾走しながら、一方で幻の風街、すなわち、1964年以前の東京の原風景に拘り続けた唯一無二の都市の詩人。ぼくは、松本隆氏不在の東京という現実を容易に受け入れることができない。同時に忸怩たる思いにも駆られる。少なからず東京に関わる仕事に携わっていながら、松本氏の深い絶望を知ることなく、みすみす彼を地方に移住させてしまったことに。松本氏同様、絶望のうちに東京を離れていった友人、知人に対しても自らの無力さを恥じ入る。
彼らが離れていった理由は様々であろう。都市の記憶を根こそぎ破壊する無秩序かつ暴力的な再開発(それは愚かな永久運動のようだ)、極端な競争主義と個人主義の帰結たる殺伐とした人間関係、非人間的な通勤・居住環境、近い将来勃発するであろう首都直下型大地震、そして、見えない恐怖として存在し続ける放射能に対する不安感。それらは、ぼく自身の深層心理にも確実に存在し、日々ストレスとなってじわじわと心身を蝕んでいる。だから、東京を離れた彼らの気持ちは良く分かる。分かるのだが、どこかしっくりこない点があるのもまた事実だ。つまり、東京で生まれ育ち、東京ならではのメリットを存分に享受し、事あるごとに東京人であることを自負してきた彼らだからこそ、あえて“踏みとどまる”という選択肢もあったのではないか?
かくいうぼくも、時折、自分が巨大な廃墟の中にいるかのような錯覚にとらわれることがある。生まれ育った団地も、公園も、学校もすべて再開発で取り壊され、幼少期の記憶の原風景はもはやどこにも存在しない。かつて愛した新宿も絶え間なく変貌し続け、ここ数年ですっかり見知らぬ街になってしまった。しかし、この廃墟のような都市のどこかに、ぼくの故郷は依然として存在するし、この街を失ったら、デラシネ、もしくは、ジプシーのように、寄る辺なく彷徨い続けるであろうことを知っている。だから、ぼくは、松本氏や友人達が見切りを付けた東京に居残り、解体前の雑居ビルに、黒く湿った木造長屋に、その他無数のうらびれた風景に、幻の風街を探すのである。
東京の地下に“やみくろ”という奇怪な生物が棲みつき、都市の残りものを食べ、汚水を飲んで生きているという。独自の知性や宗教を持ち、地下に紛れ込んできた工事の作業員などを捕まえて、肉を食べることもあるそうな。これは、村上春樹氏が小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で描いた都市のイメージであり、このもののけを建築家の磯崎新氏は、1985年の新都庁舎コンペに提出した「東京都新都庁舎のためのプロポーザル」に引用した。すなわち「新宿の地下深く“やみくろ”に住みついてもらわねばならない」と。松本隆氏もまた、はつぴぃえんど時代に、麻布は暗闇坂にガマの妖怪ならぬ、むささびの妖怪“ももんがー”が棲みついているとし、都市の中に潜む“闇”を魅惑的な歌にした。しかし、同じ闇に生息する妖怪とはいえ、やみくろとももんがでは随分と印象が違う。前者には、都市伝説的な邪悪な情念を感じるのに対し、後者の印象は、フォークロア的な神秘性とある種のユーモアであり、どす黒い邪気とは無縁である。
今の東京は、神秘的な闇の世界の化身であった“ももんが”が地上から駆逐され、欲望や邪気の結晶たる“やみくろ”のみが暗い地下の底で蠢く、そんなグロテスクな都市に成り下がってしまったのではないか。松本隆氏や友人達が東京を離れた一番の要因は、そこにあるのかもしれない。
世界はディランを待っている
ボブ・ディランのノーベル文学章受賞のニュースを聞いて以来、ぼくの心はそわそわと落ち着かず、まるで場違いな場所に迷い込んだかのような、着心地の悪い服を着ているかのような、そんなしっくりこない気分の日々が続いている。まもなく一月が経とうとしているというのに、この違和感からいまだに脱却することができない。
無論、嬉しくないわけがない。当然の受賞であり、半世紀前に「ジョアンナのビジョン」で成し遂げた偉業に鑑みれば、もっと早く取って然るべきであったとさえ思う。ウンザリしてしまうのは、「辞退した方がカッコ良かった」「反戦歌手がダイナマイト王の章を受けるとは失望した」などと見当違いの批判をする輩が少なからず存在し、そういう戯言を抜かす連中に限って、ディランの作品といえば「風に吹かれて」と「戦争の親玉」、それとせいぜい「ライク・ア・ローリングストーン」位しか認識していないように見受けられることだ。昨日の“にわかディラン評論家”は、今日は“にわかアメリカ大統領選評論家”となり、明日は“にわかTPP評論家”の顔をして、ワイドショーで稼ぎまくることだろう。いやはや、お忙しいこった。
もっと性質の悪いのが、30年以上も前に発表された古の楽曲を得意気に掘り出してきて、「ディランはイスラエルの戦争犯罪を擁護していた」などと周回遅れも甚だしい告発を始める自称人道主義者の一群であり、この手の腐敗した政治臭がプンプンする連中は、歌詞の重層性や多義性を読み解く能力も無く、そもそもディランが問題の歌「Neighborhood Bully」のほかにイスラエル擁護の発言をしたことがあるのかさえ調べようともしない。ただ高みに立って糾弾するのみ。何たる知的退廃!
Neighborhood Bully――直訳すると、近所の「弱いものイジメをする奴」であり、ディランは、イスラエルを「イジメっ子」もしくは「ゴロツキ」に準え、しかしゴロツキもまた悲しいし辛いのだと歌っているようにも聴こえる。確かにパレスチナ人の塗炭の苦しみは一切描かれていないし、爆弾工場の下りは、前年(1982年)に発生したパレスチナ難民大量虐殺事件(サブラー・シャティーラ事件)に対する無知を曝け出しているようにも思える。しかし、気を付けなければならないのは、それはあくまでも「聴こえる」もしくは「思える」という聴き手側の印象であり、ディラン自身は何一つ特定も断定もしていないのである。ぼくの解釈としては、Bullyという比喩を使っている時点で、この歌を独善的なイスラエル讃歌と判断するのは短絡的に過ぎると思うし、むしろ悪漢の立場から世界を視るという点に、ディラン一流のシニカルで複眼的な詩心を感じてしまうのだが、どうだろう?
そして何より特筆すべきは、「Neighborhood Bully」の楽曲としての完成度の高さである。スピード感溢れるメロディ、力強くシャウトするヴォーカル、マーク・ノップラーとミック・テイラーのソリッドなリード・ギター、これらが混然一体となり、まるで70年代のローリング・ストーンズを彷彿とさせる豪放なロックンロールナンバーに仕上がっている。この曲が収録された「インフィデル」は、ぼくがリアルタイムで初めて聴いたディランの新作アルバムであり、掛け値なしに良い曲、良いヴォーカル、良い演奏で満たされた傑作と信じてやまない。特に冒頭を飾る「ジョーカーマン」は、内向的なキリスト教信仰時代を経て、ディランのリリックが再び“世界”との接点を持ったことを宣言する記念碑的ナンバー。この歌を今年、かの英国フォークの雄ヘロンが得意の田園スタイルでカバーしたことにも驚いたが、それ以上に彼らが今月来日するという報せには絶句するのみであった。ライブ観戦報告も含め、その話はまた次回。
◆Bob Dylan - Jokerman
拝啓 大統領殿
戦争屋と結託し、ロシアやイランとの交戦も辞さない超タカ派のヒラリーと、レイシストでミソジニストで反知性主義の不動産王トランプのどちらがリーダーに相応しいか、これはもう究極の選択と言わざるをえない。だからドナルド・トランプが大統領選で勝利したことに驚きも悲観もしない。ただ警戒するのみである。そして、我が国では既に、彼らに負けず劣らず好戦的で反知性的な極右政権が圧倒的な支持率を得ているという点こそ、驚き、悲観すべき現実であろう。
木漏れ日の密造酒ヘロンに酔う
自分はロイ・アップス派であることをあらためて認識させられた。と書いても、何のことやら、であろう。英国フォークきっての田園派ヘロン(HERON)は、ロイ・アップスとジェラルド・T・ムーアという2人の優れたシンガー・ソングライターを擁する。11月14日、雨のそぼ降る高円寺で行われた初来日ライブにおいて、容姿、ヴォーカル、演奏共に現役感を持ってグループを牽引していたのはブルージーなムーアの方だったかもしれない。しかし、ヘロンであることの存在証明たる、牧歌的で、穏やかで、甘い風の香りがする郷愁感に満ちた音楽を届けてくれたのは、アップスのヴォーカルとギターであった。そりゃもう圧倒的に。
このゆるい演奏とコーラスが放つ心地良い振動を他人に伝えるのは難しい。もしかしたらそれは、ヘロン愛好家だけが特権的に感じ取ることのできるグッド・バイブレーション、すなわちパストラル・フォークの魔法なのかもしれない。
熊のように丸々と太り、隠居したカウボーイのようないでたちで、温厚な笑みを浮かべ、「マイ・メディスン」とおどけながら缶ビールを飲むアップス。確かに老いた。しかし、目を瞑れば、眼前に浮かぶのは、英国の緑眩しい田園風景に屹立する長髪の4人の若者の姿だ。彼らは今もそこで、鳥のさえずりや草木が風にそよぐ音に合わせ、ギターを爪弾き、鍵盤を奏で、パーカッションを叩く。三層に重なった歌声は、木漏れ日の中で琥珀色をした密造酒になる。すっかり酔ったぼくは、彼らと一緒にディランの「ジョーカーマン」を歌う。あぁこれは、ムーアのヴォーカルだった。それもまた良かろう。つまるところ、ぼくは、絶対的なヘロン派なのだ。
◆Heron -Jokerman
マキジイからの贈り物~「ヒットソング」の作りかた
2005年10月から翌1月にかけて、音楽プロデューサーの牧村憲一氏がnov46名義で執筆されていたはてなダイアリー「1968年夢の海岸物語または音楽史」は、日本のフォーク・ロック・ポップス史に関心のある者なら垂涎ものの情報満載の驚くべきブログであった。それは、2005年2月に岐阜県中津川市坂下町で発生した一家殺人事件の報せを聞いた氏が、35年前に同市で開催され、自らも実行委員として関わった全日本フォーク・ジャンボリーを回想する下りから始まる。そして、話はさながらジェットコースターの如く、70年代(大瀧詠一、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや)、80年代(加藤和彦、YMO、忌野清志郎、細野晴臣&ノン・スタンダード)、90年代初頭(フリッパーズギター、L⇔R)まで、日本のポップス黎明期を同伴したミュージシャンとの知られざるエピソードを織り交ぜながら、四半世紀の時を一気に駆け抜けていく。毎日更新される改行無しの2千字の文章は、牧村氏の魂の叫びのようで、読む度に背筋が伸びる思いがしたことを記憶している。もう一つ個人的に忘れられないのは、このブログが果たした“広場”としての機能だ。コメント欄を通じて、オランダの薔薇氏、SIDEWAYS氏、江戸門弾鉄(現・金多萬亀)氏、kumoQ氏、さらに、SCRAPS氏、subterranean(現Takimoto)氏などの素晴らしい音楽仲間との交流が始まった。もっとも、ぼく自身の不徳の致すところで、彼らとのつながりは今やほぼすべて失われてしまったが――。牧村氏に関していえば、ポリスター本社のスタジオに、オランダの薔薇氏、SIDEWAYS氏と共に招待され、爆音でティン・パン・アレイの秘蔵ライブ音源を聴かせていただき、その後恵比須駅近くのレストランに場所を移し、ブログには書けなかった秘話を沢山聴かせてもらったことは、一生忘れないであろう。もう時効であろうから書くが、当時氏が構想されていた日本版RHINOプロジェクトに関する打ち明け話は、今思い出しても震えが出るほど興奮してしまう。今月刊行された『「ヒットソング」の作り方〜大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』は、牧村氏が、そのはてなダイアリーをベースに書き下ろした私的音楽史であり、同時に、ポップス不毛地帯であった我が国でいかにして“都市の音楽”が創られ、広まっていったかを生々しく証言する極めて重要な一次資料である。氏の誠実なお人柄が伝わる暖かく端正な文章で綴られた本書は、すべての音楽ファンにとって、心に響く贈り物となるであろう。そして、刊行直前に48歳の若さでこの世を去った黒沢健一氏に捧ぐかのように、本書は、敢えてL⇔RとWITSレーベルの時代に触れることなく、その直前で幕を閉じる。元四人囃子のドラマー岡井大二氏との再会、そして「ラギーズ」と名乗る兄弟バンドとの出会いから始まる続編に大いに期待したい。(nov46氏へのオマージュとして、一切改行無しの記事とした。読みにくいゾ。)
ライブとハコの幸福な関係考
雨男なのだろうか。近頃は、雨の日とライブ観戦が重なることが多い。あらためて書くまでもないが、雨の日のライブは辛い。それが寒い冬の夜となると尚更だ。冷たい雨に打たれながら開場を待つ時間のやるせなさ。この歳になると、もうそれだけで挫けそうな気分になる。先週(1月8日)の七尾旅人のライブは、まさにそういうシチュエーションでの開催となった。会場は、鶯谷駅近くの東京キネマ倶楽部。グランドキャバレーを改修して劇場にリニューアルしたこのハコのことは、かねてより存在は知っていたが、足を運ぶのは今回が初めてだ。そして、この淫靡でレトロ趣味なハコが、新年早々、ライブとハコのあるべき姿を考えさせるきっかけとなった。
まず、現状報告をしよう。ぼくが会場に到着したのは、開場20分前の午後4時40分。既にこの時点で、ビルの軒下は雨宿りをするファンで溢れ、そこに入れない多くの人たち――少なく見積もっても百人以上――は、路上で傘を差しながら、開場を待っていた。やがて5時になり、スタッフの指示に従い整理番号順に入場することとなったが、ここからが大変な時間を要した。というのも、5百名を超える観客を、定員10名弱の狭隘なエレベーター2基で6階の会場までピストン輸送していくため、整理番号が後ろの者は延々と待たされることになるのだ。結局、ぼくがエレベーターに乗ることができたのは、開演20分前の午後5時40分、つまり、ここまでで約1時間、冷雨の中立ち続けていたことになる。それでもさほど疲労を感じなかったのは、肉体的な苦痛より、最高の音楽を聴くことができるという高揚感の方が勝っていたからだろう。そして、もう一つ、会場に入れば、座席に腰を下ろせるという安堵感もあった。しかし、その楽観的観測は、フロアに足を踏み入れた瞬間、打ち砕かれることとなった。ステージ前方に設けられた自由席は既に満席であり、半数以上の観客は、その後方に何層にも連なって「立ち見」をしている状態であったのだ。これはまずいことになった、と思った。何故なら、この日、ぼくは妻を連れてきていたからである。一人であれば、何時間の「立ち見」でも耐えられる覚悟はできている。しかし、同伴者にそれを強い ることはできない。迷いと後悔が交錯する中、旅人の演奏は始まった。 それは期待に違わぬ素晴らしいパフォーマンスであった。ガットギターの爪弾きに乗せて呟くように歌われるシンプルなリリックは、ノイジーな電子音とアフリカの精霊に導かれるかのように、情熱的でソウルフルな咆哮へとメタモルフォーゼしていった。文字通り引き込まれるように旅人の演奏に聴きいった。2時間近く経った頃だろうか。突然、異変は起こった。隣にいた女性がドタッという音を立てて、床に倒れ込んだのだ。正確に言うと床に座り込んだのだが、その唐突さは、まるで倒れ込んだかのように見えた。「大丈夫ですか」「えぇ(大丈夫)、少し立ちくらみが――」。会場が暗くて、顔の表情は分からないが、床にべったりと座りこんだその様子は、明らかに具合が悪そうだ。係員を呼ぼうと、上階につながる螺旋階段の方に行くと、驚いたことに、階段の上から下まで、若い女性や年配の男性が憔悴しきった表情で座り込んでいるのだ。螺旋状の階段のため、上方では、ステージの様子はおろか音も満足に聴こえないにも関わらず。ぼくは、係員に体調を崩した女性がいることを説明し、その後、程なくして、妻と会場を後にした。ライブは、この後も2時間以上続いたらしいが、ぼくにはもう残って聴き続けるという選択肢はなかった。
繰り返し書くが、旅人は最高のパフォーマンスで迎えてくれた。では、何が問題だったのか。今後の改善を期して大きく次の2点を指摘しておきたい。
まず、チケット購入時の案内の不親切さだ。今回、入場者の約半数、ざっと見たところ2百人以上が席に座れず、立ち見での観戦となった。主催者側は、当然、そのことを知りながらチケットを売り捌いている。ならば、事前に、整理番号○番台以降は立見になること、もしくは、もっとシンプルに、座席+立見の公演であることを周知しておくべきではなかったのか。公演場所が劇場であること、さらに、「全自由」という紛らわしい表記に惑わされ、てっきり人数分の「自由席」があるものと思い込んだオッチョコチョイは、ぼくひとりではないはずだ。
2点目、これが最も重要な点なのだが、音楽はその内容に合った環境で演奏されなければ、聴衆は決して満足しないということだ。パンクやヘヴィメタルなら、スタンディングのモッシュ状態で汗まみれになって盛り上がるのも良かろう。しかし、旅人のそれは、静謐で、室内楽的な趣を備え、一方で、凡百のパンクスの比ではない暴力性と狂気を孕んでいることは理解しつつも、決して、踊ったり、騒いだり、ダイブしながら聴く類の音楽ではない。4時間のライブを敢行したサービス精神は大いに称賛されるべきだが、満員電車さながらのすし詰めの立見状態では、有難味も半減ではないか。先日のヘロンの高円寺公演でも感じたのだが、フォーク・ミュージックをオールスタンディングのハコで鑑賞させる興行主のセンスには、首を傾げるばかりである。そこには、詰め込めるだけ詰め込んでとにかく稼ぎまっせという守銭奴の腐臭が漂うのみで、音楽への愛なぞ微塵も感じられない。
この夜のライブは、子連れの若いファミリーが多く、あちこちから幼子の泣き声が聞こえた。それは、旅人のハートウォームな歌声と共鳴し、ぼくにはとても素敵な音楽に聴こえた。「6歳未満お断りとか言っている奴はミュージシャン辞めればいいのに。むしろ大人は来なくていい」と冗談まじりに発した旅人のMCに強く共感しつつも、ならば、高齢層やハンディキャップを抱えた客のことも考えなければ、片手落ちであろうと思う。世代や障害を超えて、誰もがユニバーサルに楽しむことのできるライブ環境を整備しなければ、日本のライブ文化は早晩廃れるであろう。いや、むしろ、そのようなものは、不味いドリンクを強制的に飲まされるライブハウスと共に絶滅してしまってよいとさえ思ってしまうのだ。
南方の不死鳥、東京に来たる
山城博治(ヒロジ)は怒っていた。有明防災公園で開催された5.3憲法集会。会場を埋め尽くした5万5千人の参加者の前で、腕を振り上げ、声を嗄らしながら、「辺野古で護岸工事と称する埋め立ての一部が始まろうとしている。しかし、埋め立てはできない。新基地はできない。沖縄県民は、政府と真っ向から抗していく。我々は負けないのだッ!」と力強く叫ぶ姿は、まるで燃えたぎる憤怒の炎に包まれたシーサーのようであった。彼の怒りの刃の切っ先は、憲法を改悪し戦争の道へと突き進まんとする安倍政権に、すべての抵抗運動を圧殺する危険性を孕んだ共謀罪に、さらに、厄介な問題は何もかも沖縄に押し付け、晴天泰平の夢をむさぼっている厚顔無恥なヤマトンチュに向けられていた。
沖縄平和運動センターの議長。昨年10月、辺野古の新基地建設と東村高江地区のヘリパッド建設への抗議活動に関連して逮捕・起訴され、5ケ月間にわたって長期拘留された。この不当な弾圧に対して、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは「デモや座り込みを含む抗議行動を表現の自由として保障する義務を日本政府は負っており、山城さんの逮捕・拘禁は運動への委縮効果を生む恐れがある」との懸念を表明し、検察当局に「国際人権基準に則って速やかに釈放するよう」強く求めていた。このような支援を受け、3月にようやく保釈。しかし、厳しい接見条件が付いているため、いまだに辺野古の現場には戻れない。ならばと、全国を回って、沖縄の現状を伝えることにした。
とにかく滅法明るい人である。4日に渋谷のロフト9で開催されたトークイベント「山城博治さんと語ろう」でも、満員の会場は何度も爆笑の渦に包まれた。「状況が厳しいので、心折れないように、自分の心を支え、周囲の人の心も気遣いながら、このように語り合う時間が今一番大切なのです」と静かに話し出す。それは、前日の憲法集会で激烈なアジテーションを飛ばした人と同一人物は思えない程穏やかで柔らかな口調。そして、自らの深刻な事象や問題を明るくユーモラスに描写する語り口は、楽天的で大らかなウチナーンチュの気質から来るものであろうか。聴衆を惹きつけ、一時も飽きさせることがない。誰もが目を輝かせながら、ヒロジさんの話に聴き入っている。
「沖縄には、日本国憲法で保障されているはずの平和も人権もない。まさに憲法番外地。一刻も早く本来の日本国憲法を取り戻したい。」
「日本政府にこれだけ無理を強いられると、沖縄の人の心は本土から離反し、独立も考え出すだろう。しかし、沖縄の独自の文化は、日本の中でも輝き、日本を非常に豊かなものにしている。だから私たちは手を携え、共に進んでいかなければならない。」
「一千万の人が観光に来る島に軍事基地を置いた方が経済的効果があるなんて議論は倒錯していて話にならん。平和でなくては、観光も成立しないのです。」
熱い言葉がポンポンと飛び出す。
安倍首相が前日に発表した、憲法第9条の1項と2項を残しつつ自衛隊の存在を明記した条文を追加するという提案については、「安倍さん位の頭じゃないと理解できない」と笑い飛ばしつつも、憲法改悪が現実のものとなった今、来るべき衆議院選挙では改憲勢力に3分の2をとらせてはいけない、政党も市民も小異を捨てて、「憲法を変えさせない 日本を軍事国家にしない」の一点で共闘すべきと訴える。
会の後半は、マガジン9編集長の鈴木耕さんの司会で、映画監督の三上智恵さん、社民党前党首の福島瑞穂さん、元自衛官の井筒高雄さん、SEALDs琉球の元山仁士郎さんも加わったトークとなり、日米地位協定の問題、先島諸島の軍事化の問題、そして、共謀罪の問題などが真剣に、そして一方で、何度も笑いに包まれながらの明るく勇気に満ちたムードで語られた。
ヒロジさんは、2年前、悪性リンパ腫で5ケ月間の壮絶な闘病生活を経験している。そして、昨年は5ケ月間の拘置生活、しかし、いずれも乗り越えた。その姿を、三上智恵監督は、不死鳥に例える。三上監督の作品「戦場ぬ止み」に印象深いシーンがある。2015年1月10日深夜の辺野古シュワブゲート前。騙し討ちのように入ってきた工事用のミキサー車20台に、ヒロジさんを先頭に住民有志が立ちはだかる。抗議の末、10台は阻止した。逮捕者も出さなかった。しかし、別の場所で一人の住民が逮捕されたことを知る。ヒロジさんは、仲間に話す。
「夜が明けたら取り返しに行こう。名護署を包囲しよう。誰か捕まりそうになったら、それを最優先で取り返す。仲間を救うことができなければ大衆運動はできないんです。大衆運動は、一人の人間を全員で助け出すという決意があるからできるんです。捕まった奴は自己責任と言ったら、恐ろしくて誰もやれない。ね、いいですね。いつも言ってる。大衆運動は、誰か捕まりそうになったら、皆で助ける。」
この決意を、2012年6月以降の東京の運動は忘れてしまったのではないだろうか。そして、その運動の変質こそが、現在の大衆行動の無力化の一因のような気がしてならない。
(主催の大木晴子さんとロフトの加藤梅造さんに心より感謝いたします。)
Folk Songs(7) Don’t Look Back in Anger
今朝のニュースで、ロンドンでまたテロが起こったことを知った。ロンドン橋上での暴走車による凶行。6人が命を奪われたという。先月末には、アフガニスタンの首都カブールの官庁街で自動車爆弾が爆発し、死者は90人に達した。その前週には、マンチェスターのコンサート会場での自爆テロ。8歳の少女を含む22人が犠牲となった。
マンチェスターの犠牲者は、程なくして全員の顔と名前とその人柄が世界中に報じられた。10代の少女、カップル、子供を迎えに来た保護者。彼ら、彼女たちは、まるでぼくの昔からの友人や子供達のように思えた。マンチェスター!遡ること30年以上前に特別な思い入れを持って聴いていたジョイ・ディビジョン、ニュー・オーダー、スミスらを輩出した都市。犠牲となった親たちは、ぼくと同世代の者が多く、彼らもどこかで、その音楽を耳にしていたのではないだろうか。
先日の朝、出勤前に偶々見たテレビのニュースが忘れられない。マンチェスター市内の広場で行われたテロ犠牲者を追悼する集会。黙祷を捧げる人々の間から、オアシスの「Don’t Look Back in Anger」の合唱が自然と始まった。怒りをもって振り返ってはいけない。その歌声はさざ波のように広がり、ぼくの心を強く揺さぶった。思えば、ストーン・ローゼズ以降のマンチェスターの音楽シーンには然程シンパシーを感じたことはなかった。何よりオアシスに熱狂するにはもう歳を取りすぎていた。そんなぼくが唐突に心揺さぶられたのは、彼らの歌が20年の時を経て、人々の生活と切り離せない「民衆の歌」となったことに今更ながら気付かされたからであろう。願わくば、カブールで命を落とした90人の犠牲者にも顔と名前と追悼の歌を。
(6/5追記 ロンドン橋テロの死者は、その後7人となった。)