Quantcast
Channel: AFTER THE GOLD RUSH
Viewing all 126 articles
Browse latest View live

フォークゲリラを知ってるかい? その18

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-渋谷ハチ公前の東京フォークゲリラ 新宿駅西口地下広場を追われたゲリラ達は、国電に乗り、第2、第3の「広場」の創出を試みた。例えば、渋谷駅ハチ公前広場。ここは、この年(1969年)の6月以降、慶応大や東工大のべ平連の学生達が、敷石に座り、のんびりとフォークソングを歌う場所で、「定価無料、カンパ50円」のガリ刷りの歌集が結構な売れ行きを見せるなど、買い物帰りの女性やアベックの人気をささやかに集めていた。しかし、この長閑な風景が一変する出来事が起きた。


8月2日、土曜の夕刻。待合せの男女でごった返すハチ公前に、新宿から流れてきた数人の若者がギターをかき鳴らしながら突如姿を現したのだ。「♪友よ、夜明け前の闇の中で――」。「私たちは東京フォーク・ゲリラです。今、新宿駅西口地下広場では機動隊が私たちの表現の自由を奪おうとしています。ここも“広場”です。皆さん、一緒に歌いましょう」。ハンドマイクを持った若者が群衆に呼びかける。ワっと沸き起こる拍手。通行人が足を止め、みるみるうちに、百人以上の人垣が出来る。渋谷駅一帯に熱気を帯びた歌声が響きわたる。


突然のゲリラ出没の報せに渋谷警察署は大いに慌てた。直ちに60名の署員が駆け付け、「通行の邪魔になる。移動しなさい」と説得にかかるが、聞き入れられないと、今度は強制排除の構え。腕をねじりあげ、力づくで連行しようとする。「おい、皆楽しんでるのに、酷いじゃないか!」「暴力反対!」。群衆の中から激しい抗議の声が上がり、それは程なくして「官憲帰れ」の大合唱へと発展。5百人以上の人の輪が、怒りに満ちたシュプレヒコールが、じりっじりっと警官隊を包囲する。ひるむ警官。「立ち止まらないでっ、歩きなさいっ!」と必死に警告するものの、増える一方の群衆には全く効果が無い。結局、この日、渋谷駅前では、夜8時過ぎまで反戦フォーク集会が続けられることとなった。


新宿から山手線外回りで5駅目の池袋にもゲリラは現れた。駅西口地下、東武ホープセンターの通称“オーロラプロムナード”前で、立教大べ平連を中心とした若者たちが、土曜の夜にフォークソングを歌い始めた。地下商店街の経営者らは、「フォーク集会の人たちと“対決”する気はないが、私たちは商売しているのだし、新宿のような状態になったら困る」と困惑顔。


ゲリラの中でも最も先鋭的で戦闘的なメンバーは、中央線の吉祥寺駅を新たな拠点とした。彼らは、あえて金曜午後6時から、駅北口改札前広場でフォーク集会を開催し、土曜は、機動隊で占拠された新宿駅へと“出撃”した。2千人の機動隊員に突き飛ばされ、蹴られ、追われながらも、アジるように歌い、叫び、そして、東口へ向かい、歌舞伎町のコマ劇場前小公園で反戦フォーク集会を敢行した。


このほか、有楽町数寄屋橋広場(ここは、69年春から東京フォーク・ゲリラが毎月第1土曜日にフォーク集会を開催していた)、蒲田駅西口、秋葉原駅、江古田駅等々、歌声は、国電や私鉄に乗って、都内各駅へと拡散していった。


都内だけではない。駅前フォーク集会は69年の夏以降、全国各地に広がったのだ。札幌の大通公園、金沢の中央公園、新潟の県民会館前広場、高松の瓦町駅前広場、盛岡駅前広場、そして、飛騨高山、会津、福岡、大牟田、熊本、栃木、鹿児島など、全国至るところの“広場”で反戦フォークの歌声が響き渡った。この時期、フォーク・ゲリラ発祥の地である大阪梅田駅地下街においても、活発でユニークな活動(通称「梅田大学」)が継続していたことも、書いておかねばなるまい。

AFTER THE GOLD RUSH-友部正人
そして、このムーブメントの中から、優れてオリジナリティに富み、抜きんでた才能を有した孤高のフォーク・シンガーが生れようとしていた。生来の破壊衝動を抑えられなかった「彼」は、高校時代、学生運動に関わり、名古屋市の本山交番を高校生安保闘争委員会の仲間達と火炎瓶で襲撃。鑑別所に入れられた経験を持つ。卒業後の69年春、交番襲撃事件で留置所から出られない仲間のためにカンパを始めようと、友人の竹内正美、朝野由彦らと名古屋市栄地区の路上で歌い始める。


「ぼくは名古屋の栄にあるオリエンタル中村というデパートの前ではじめてやってみた。誰も立ち止まる人もいないし、聞いてくれる人もいなかった。でも2回ぐらい日をおいてやったら、同じようにギターを持って歌う人たちが集まってきた。ボブ・ディラン以外にも歌のあることは知っていたけど、目の前でそれを聞いたのははじめてだった。それは、ジャックスだとか、岡林信康だとか、高田渡だとかだった。それから、ローリング・スト―ンズとか、バーズとかだった」。


「彼」は、居候していた劇団の謄写版で歌集を作った。表紙に大きく「栄解放戦線」と書き、それがいつしか彼らのグループの呼び名となった。毎週土曜の午後4時から6時まで栄の路上で歌う彼らの周囲には数百人の人の輪ができ、同時に警察の弾圧を受けることにもなった。「彼」は、「ゲバラのバラード」「石原慎太郎霊歌」などの自作のプロテストソングを作り、ギターを掻き鳴らし、ディランのようなしわがれ声で歌った。


 ♪忘れもしない大分前のこと お前さんは太陽族だった
  若者たちのアイドルだった 今じゃ軍国タカ派のアイドルさ
  お前さんも江ト君のあとを追って 今すぐに切腹しておくれ


この素朴で稚拙なプロテストソングが「彼」の原点だ。翌70年、20歳になった「彼」は、名古屋を離れ、10トントラックで大阪にやってきて、喫茶「ディラン」を拠点に活動を始めることになる。「彼」の名を、友部正人という。(つづく)


【追記(5/19)】
上記事の時系列に誤りがあったため訂正する。名古屋市千種区猫洞通の本山派出所が火炎瓶で襲撃されたのは、友部正人が高校卒業後の1969年8月22日のこと。当時の地元紙(中日新聞)によると、実行犯は、フォークゲリラ「栄解放戦線」の中心メンバーと高校生グループとあり、記事の扱いの大きさからも、フォークソングを愛好する高校生達が過激な行動に走ったことに、名古屋市民が大きな衝撃を受けた様子を窺い知ることができる。


なお、私が資料として参照した「1972春一番」ボックスのブックレットに、竹内正美氏(センチメンタル・シティ・ロマンス-マネジメント)が1976年に記した以下の文章が引用されている。「友部と初めて会ったのが、69年6月の名古屋・交番所を襲撃して留置所に入っているたまたま共通の知り合いがいて、そいつのために街へ出てカンパやろうというのがきっかけ。その時、高校時代の同級生でもあった朝野(由彦)も誘って、街の一角で歌い始めた」。上記ブックレットはここで終わっているが、原文では以下のような文章が続いている。「3人は8月に交番に火炎瓶を投げて鑑別所に入る」。


参考文献等
・毎日新聞(1969年7月4日)
・朝日新聞(1969年7月5日)
・読売新聞(1969年8月3日)
・日本経済新聞(1969年8月3日)
・週刊アンポ創刊号(1969年11月17日)
・友部正人「ちんちくりん」(ビレッジプレス)
・1972「春一番」ブックレット
・フォークゲリラ冊子集(遊撃隊/冥土出版)
・その他、メールで情報提供をいただいた皆さん


ちいさな群への挨拶

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-6.29 古い友人とおち合う予定だった。しかし、それどころではなかった。国会議事堂前駅を出ると、予想を遥かに超える人々が、歩道を、車道を、ぎっしりと埋め尽くしていた。その人波に揉まれ、高揚した気分というより、むしろ呆然としながら、夢遊病患者のようによろよろと歩いていった。腑抜け面した、仕事帰りの疲れた中年男は、しかし、確かに、ある一点に向かって、明確な決意を持って進撃していたのだ。夕闇に黒々と聳え立つ、国家の中枢へと!


今は否定的なことは書かない方がいいのかもしれない。「来週はもっともっと大勢の人で取り囲もう」と大袈裟に嬉し涙を流しながら、旧友と酒でも酌み交わしていればいいのかもしれない。しかし、解散予定時刻の10分前、続々と押し寄せる群衆に動揺した“主催者”が、こともあろうに、警官隊と連携して「解散」をヒステリックに叫ぶ姿を見て、昨年来ずっと抱き続けていた小さな違和感の正体がくっきりと浮かび上がった気がした。それがぼく自身の早トチリであり、錯誤であることを願う。心から願う。


吉本隆明の詩の一節を想起する。「ぼくはでてゆく/冬の圧力の真むこうへ/ひとりっきりで耐えられないから/たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから/ひとりっきりで抗争できないから/たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから/ぼくはでてゆく」。野武士の如く剛毅な美しさに満ちた言葉だ。この決意は今どこにあるのだろう。民主主義とは、誰かに組織されることではなく、また、数の多さを誇ることでもなく、あの十万の人たち、一人一人が“主催者”であることではないのか。

大きな壁が崩れる

$
0
0


(2012年7月13日原発再稼働許すな!首相官邸前抗議行動にて)

「13日の官邸前抗議行動で、中川五郎さんが『We shall overcome 』を歌ったらしいね」
「個人的には何かと釈然としない点も多い“金曜デモ”だが、あれは良かった。特に、五郎さんが新しく訳されたという日本語詩は素直に心打つものがあった」
「『We shall overcome 』を、『大きな壁も ぶつかり崩す』もしくは、『大きな壁が崩れる』と歌っていた」
「さすが、数々の名訳詩を手掛けられた五郎さんならではの歌という思いがするよ。言葉の選び方がシンプルなんだけど、奥深い。それでいて、スーっと抵抗感無く、体に入ってくる」
「字余りでやや歌いずらいという人もいたようだが」
「確かにそういう弱点もある。これまでは『たたかいぬくぞ~』と7つの言葉で歌っていたフレーズを、五郎さんは『あなたとわたし みんなのちからで』と2倍以上の言葉を使っているものだから、相当な字余り感だ。でも、そんなこと言ったら、岡林の『私たちの望むものは』なんて、物凄い字余りだよ」
「『私たちの望むものは』はそもそもシングアウト向きに作られた歌ではないだろう。シングアウトするには、音符と言葉の数がピタっと合っていた方が歌いやすい」
「それはどうかな。例えば桑田さんのコンサートなんて、超字余りの歌を何万という人たちが大合唱している。要は、歌がぼくらの体に馴染むかどうかだ」
「五郎さんの『We shall overcome 』は、皆の体に馴染むだろうか」
「馴染むさ。16日の代々木公園でも一緒に歌えたら最高だね」
「ところであんた、フォーク・ゲリラのほうはどうなった?」
「ハンパクでの造反劇まで書いて止まってしまった。世に流布している定説に大きな疑問を感じ始めてね」
「どういうことか?」
「一般にこう言われている。フォーク・ゲリラたちは政治的に過激化し、岡林や高石ら歌の作り手たちを『商業主義』と激しく批判した。それは『内ゲバ』の様相を呈し、ゲリラも関西フォークも共に終焉を迎えた」
「それは史実だろう。何が違うのか?」
「うん、一面から見ると確かにその通りなのだ。しかし、別の側面から見ると違うものが見えてくる」
「思わせぶりな言い方だな」
「つまり、これまでは一方的にフォーク・ゲリラたちが批判されてきた。高田渡の『東京フォークゲリラの諸君達を語る』を想起するがいい。しかし、ゲリラ達の高石事務所への批判は、実は非常に的を得たものだった。客観的に見て批判されるべきは、高石事務所及びURCレコードの秦政明代表のあこぎな商売のやり方であり、さらに、彼の下で奴隷のように搾取されながら、それに対して異議申し立てもせず、黙々とプロテストソングを歌い続けたアンビバレンスなミュージシャン達の方だったのではないか。高石や岡林らは、むしろゲリラ達と共闘して、事務所と対決すべきだったとさえ思う」
「それも一方的な見方という気もするが」
「そうかもしれない。でもこれだけは言える。真実や善悪は見る角度次第で全く変わるということ。だから、ぼくたちは常に世の定説を疑ってかからなければいけない」
「面倒だね」
「ああ、面倒だ。でも、そこが、現実社会の面白いところでもある。だから、重箱の隅つつきと罵倒されようとやめられないのだ」

デモ、でも、デモクラシー・・・

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-7.29脱原発国会大包囲 マキジイ‏@ makiji「僕は、今夜国会議事堂に向かいます。一番端にいても自分の意思を表明する一人でいたいと思います。歩くこと、動くこと、意思を表明すること、考えること。そういうことを厭わない自分でいたいと思います。東京近郊の方、一歩でも国会へと。行けない方、心の中でも支援を。」(http://twitter.com/makiji/status/229419528226996224


19時過ぎ、社会文化会館からぐるっと回り込んで、ようやく辿りついた国会議事堂正門に向かう歩道は、警官によって完全に通行を阻まれていた。私「何故通ることができないのか?」。警官「人が集まりすぎて危険です。20時になれば通れますから、それまでお待ちください」。しばらく粘ったが、妻も一緒だったため、強行突破は諦め、国会図書館前へと移動。ここも人がいっぱい。ロウソクを灯し、様々な手書きのプラカードを掲げた人たち。座っている人もいれば、ギターを弾いている人もいる。そして、あちらこちらで「再稼働反対!」「原発いらない」のコールが。私は「ふくしまをかえせ」の旗の横に立ち、深く息を吸い込んでから、ありったけの大声でシュプレヒコールを上げた。本当は「原発いらない!」に続けて「オスプレイもいらない!」と叫びたいところだったが、私のコールが人一倍大きく、夜の永田町に朗々とこだまし、いつしか周囲をリードする形になっていたため、脱原発ワンイシューで来た皆さんに迷惑をかけてはいけないと思い自粛した。


主催の「首都圏反原発連合」のデモの運営スタイルや考え方には違和感を覚えるところが多い。時に危ういとさえ感じる。それに対する彼らのレスポンスは「文句があるヤツは来るな」。だから、私は直前まで行かないつもりであったが、上に挙げたマキジイさんのツイートを読んで気が変わった。反省もした。主催などどうでもいい。とにかく今は、一人一人が声を上げることが大事なのだ。十万分の一で大いに結構じゃないか。意思表示をすること、それが民主主義の原点なのだから。

フォークゲリラを知ってるかい? その19

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク 1969年8月は、フォーク・ゲリラにとって転機となる3つの出来事があった。これまでの巨大なうねりが、国家権力との対峙によりうみ出された外側に噴出する開放的で祝祭的なエネルギーの結果とするなら、8月に起きた出来事はことごとく逆のベクトルに支配されたものだった。それは、ゲリラ自身、そして「うた」とその作り手が内包していた矛盾の噴出でもあった。プロテストソングはまるでブーメランのように回帰して、歌い手たちに鋭い刃の切っ先を突き立てた。そして、この気が滅入るような“内紛劇”は、すべてステージ上で起きた。路上を主戦場としていた彼らにとって、それは好ましい展開だったのだろうか? 善し悪しは別にして、今振り返ると、ゲリラとマスメディア、そして何より、何千という人々との関係に句点を打つために歴史が用意した、悲愴な“舞台”のようにも思える。


◆8月8日 ハンパク・フォーク論争
AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク05 ハンパクとは、「反戦のための万国博覧会」の略称。8月7日から11日にかけて大阪城公園で開催された。開催の経緯については、呼びかけ人でもある美術評論家の針生一郎氏の文章を引用すると、「反戦運動を文化創造の一環として捉え、フォークソング、詩、絵画、映画などを含む『反戦フェスティバル』を何度か催してきた南大阪べ平連の若者たちが、70年に大阪で行われる万国博に対して、反対の立場からの真の文化を対置しよう、と考えたのが発端」であり、69年2月に行われたべ平連全国懇談会で提案したところ、たちまち各地べ平連から積極的に支持され、全国的規模のイベントとなったという。歌あり、演劇あり、討論会あり、デモあり、そして、警察や全共闘を巻き込んでのハプニングありのこのイベントのアナーキーで自由な活力に満ちたイメージは、ハンパク協会の次のような参加呼びかけのアピールからも伝わってくる。


  思い切り大声で叫んでみたい“あなた”
  映画や芝居の好きな“あなた”
  絵や音楽を愛する“あなた”
  話好きの“あなた”
  モノを創ることが好きな“あなた”
  アンポをつぶそうとする“あなた”
  そしてなによりも戦争を憎み、自由を求める“あなた”
  ハンパクはそういう“あなた”自身の解放された広場です


AFTER THE GOLD RUSH O君、S子さんら、東京フォーク・ゲリラの若者達は初日から参加し、開会時にはファンファーレ代わりにギターを掻き鳴らして「ウイ・シャル・オーバーカム」を歌うなど、おおいに気勢を上げた。そして、2日目の夜、「関西フォークの終わりの始まり」として(悪名高く)語り継がれることとなる“フォーク論争”が勃発した。


発端は、ホットドッグ屋を巡る騒動だった。場内には、日に延べ1万ともいわれる参加者目当てに、屋台のホットドッグ屋が無許可で営業し、結構な売上をあげていた。専用の売店を用意していたハンパク事務局は、ただでさえ赤字なのに弁当類の売上が落ちることを恐れ、彼らに立ち退きを求めた。しかしホットドッグ屋(白いダボシャツにステテコ、毛糸の腹巻というテキ屋スタイル)は「うちらかて生活がかかってんのや」と一向に動こうとしない。そして、8日の夕方、誰が呼んだのであろうか、7名の制服警官が会場に立ち入り、ホットドッグ屋を排除しようとした。場内を見回っていた私服警官が、ホットドッグ屋を巡って揉めているのを見て、制服を呼んだという説もある。しかし、この時は、警官を導入したのは、西川と名乗る事務局関係者だという話が会場内にワッと広がった。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク04 「官憲を導入した者がいたことは、事務局の体質の問題ではないか。一体事務局は、ハンパクをどう位置付けているんだ!」。ヘルメット姿の日大全共闘のグループがマイクで激しく叫ぶ。事務局を糾弾する若者たちの数は500人余りに膨れ上がり、この夜のスケジュールの中心は、ホットドッグ屋と警官導入を巡る大衆討論へと移っていった。


丁度その折、場内の広場では、「フォーク・イン・ナイト」と銘打って、高石友也、岡林信康、中川五郎ら関西フォーク勢が出演する野外ライブが開催中であった。これに東京フォーク・ゲリラの面々が異議を申し立てた。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク06 ゲリラ「隣のテントでは、会場に警官が入ったことについて、皆真剣に討論をしているよ。それなのに、あなた達は何も無かったかのように歌い続けている。警官が入ったことの意味を議論もせずに歌い続けるプロテストソングって一体何ですか? そんなものに意味があるんですか?」
高石「自分にとっては『歌う』ということがすべてです。議論はステージが終わってからにしてほしい。」
ゲリラ「だから、あなたは『ステージ派』と言われるのだ。ぼくらは、あなた達とは違う。感度の良いマイクも無ければ、御膳立てされたステージも無い。でも、あなた達より、ずっと深く、民衆の中に入って歌っているという自負がある。ぼくらは、歌うことと行動とを一致させて考えている。大体、“座り込みをするのや、デモをするのはカッコが悪い”なんて歌を、座り込みもデモもしていないあなた達が歌っているということ、それ自体を矛盾と感じないのですか?」
岡林「矛盾はいつも感じとる。あんたの言っているのとは違う意味でな。悪いけどな、諸君らが新宿でやっている行動、あれは警察に対する挑発とちゃうんか。あれでは、大衆に反戦の意思を伝えることなどできんよ。」
ゲリラ「ナンセンス!フォークを歌う者なら、新宿西口で何が起こっているのか、真剣に考えるべきだ。」
ゲリラ「そうだ。あなた達は、まるで高石事務所の商業主義に毒された“操り人形”のようじゃないか。高石事務所の商業主義的なやり方は、フォークをやっている仲間の間でもかなり評判が悪いよ!」

AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク09
かみ合わない議論は明け方まで延々と続き、この夜、ゲリラ達の乱入で唐突に途切れた歌声は、二度と再開されることはなかった。残念ながら、ハンパク・フォーク論争については残された記録が極めて少なく、上記のゲリラと高石らのやり取りも、断片的な記録と伝聞をつなぎ合わせ、不完全ながら再現を試みたものだ。実際は、もっと激しく厳しい追及と批判に支配された、さながら「糾弾集会」の様相を呈すものであったと思われ、それは当時、現場にいた関係者の証言から窺い知ることができる。例えば、当日の出演者であり、目撃者でもあった中川五郎は、00年代に入ってから、この夜のことを次のように回想する。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク02 「僕が“関西フォーク終わったなあ”って意識したのは、69年にあった大阪万博に反対する一連のイヴェントで“反パク”っていうのがあったんですけど、そこで反戦運動してる人たちや社会的な活動している人たちから高石と岡林がものすごく批判されたときですね。商業主義的とかいろいろな面で。“反パク”での討論会でも消耗させられるようなことがいっぱいあって、特に高石、岡林はそのへんでガックリ来たんじゃないかなあって思いますね。」


詩人の片桐ユズル氏も中川と同様の感想を抱いたらしく、1975年発行の「思想の科学」に次のような文章を残している。
「関西フォークの第一の波は,フォークゲリラと、高石&岡林が激論をたたかわしたところでおわると、わたしは歴史をかきながらおもったが・・・」
「それはいつのことですか?」
「1969年夏、いわゆる反博のときだよ。この内ゲバは、それまでやさしいことばの思想できたフォークゲリラが、すごいむつかしいことばをつかうようになって、自分たちが反対していたはずの口先人間ペースにはまりこんでしまったということだ」
「口先人間というのは、だれのことですか?」
「口先人間というのは、なかみと関係なしに、ことばだけをうまくあやつることができるひとのことで、こういうひとは今の管理的世の中ではうまく出世して、他人を管理する立場につくようになるだろうね。学校の成績もいいだろうし、戦争だって何だって、うまい理由くっつけて正当化できちゃう。」

AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク08
また、高石事務所の代表であった秦政明氏も、80年代半ばに黒沢進氏が行ったインタビューの中で次のような証言をしている。
「西口のフォークゲリラでも、あれなんかモロに僕なんかいろんな場面にぶつかっているし。万博の1年前に反パクってのが大阪城公園であったんですよ。あの時に僕らの事務所の連中がみんな出たんですよ。もちろんお金なんか一銭ももらってないですよ。歌ったりいろいろやったんですよ。その時に、どのグループかわかんないけども、歌をうたっている時じゃない、コンサートやめて討論集会に切り替えようっていう、よくあったパターンですけど。で、ホットドッグ屋さんがホットドッグ売りに中へ入ってきた、あれはヤクザの手先だっていうわけです(笑)。それで内ゲバになってね。岡林なんか手が早いから、ほんとに殴り合いやったんです。まぁ非常に彼らはしんどかったと思いますね。」(ただし、秦氏の話は信憑性にやや疑問が残る点があることも合わせて指摘しておく。)


この不毛な“フォーク論争”の翌日、8月9日の午後6時から10日の午前9時30分にかけて、岐阜県恵那郡坂下町の椛の湖畔で第1回全日本フォークジャンボリーが開催され、高石と岡林は、前夜の疲れを全く見せないユーモアと勇気に満ちた素晴らしいパフォーマンスで観客を魅了した。しかし、この日以降、2人が同じステージに立つことは無かった。終焉の時は、間違いなく、残酷なまでのスピードで迫っていたのだ。(つづく)


☆「ハンパク(反戦のための万国博)」については、倉田光一さんのHPに、臨場感溢れる素晴らしい写真が多数掲載されている。是非訪問して、43年前の夏の大阪城公園に現出した「ハンパク」のアナーキーな雰囲気を味わっていただきたい。なお、本稿で使用した貴重な写真は、倉田さんから承諾を頂き、掲載させていただいたものである。


倉田光一さんのHP「Welcome to Nico Photo Library」 http://www.nicophotolibrary.sakura.ne.jp/
ハンパクの写真はこちらから http://www.nicophotolibrary.sakura.ne.jp/title/archivestop.html


参考文献等
・週刊読売(1969年8月22日号)
・サンデー毎日(1969年8月24日号)
・現代の眼(1969年10月号)
・小中陽太郎「私の中のベトナム戦争」(サンケイ新聞社、1973年)
・思想の科学(1975年4月号)
・黒沢進「日本フォーク紀」(シンコーミュージック、1998年)
・レコード・コレクターズ(2003年4月号)
・その他、メールで情報提供をいただいた皆さん

非常時の音楽(うた)~赤い花は枯れてしまった

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-ASIAN KUNG-FU GENERATION 昨年3月10日に石巻市内で撮影された3枚の組写真。1枚目の写真は、積もったばかりの雪の上を不安気な表情で恐る恐る歩く子犬。2枚目の写真では、雪に慣れ、嬉しそうに遊ぶ姿が写っており、3枚目では、満足したのだろうか、優しく微笑むような表情でこちらを見上げている。生後3ヶ月のウェルシュコーギーの「こー」君。そして、毎日、あたたかな文章と写真で、愛犬の成長をブログに誠実に記録し続けた「いっし」さん。ささやかな幸せと穏やかで静かな喜びに満ちた日常が、この翌日、唐突に断ち切られるとは、一体誰が予想しただろうか。


「災後」という言葉を目にする度、ぼくは首をひねる。信じがたい気分になる。壊れた原発は、放射性物質を吐き出し続け、プルトニウムやら、ストロンチウムやら、セシウムやらが、大地と海と人体を容赦なく攻撃し続けている今、この国は依然として「非常時」であり、「災中」ではないのか。


ぼくは、才能溢れる3人の若い音楽家が、「災中」に音と言葉を繊細に紡ぎ、昨年から今夏にかけて、三者三様の「非常時の音楽」を創り出したことに、最大限の敬意を表する。選ばれし少数の優れた表現者しか持ちえない創造力の深さと志の高さに畏怖の念すら抱く。


アジアン・カンフー・ジェネレーションの2年3ヶ月ぶりのアルバム「ランドマーク」は、鋭角的に疾走するギターサウンドと暗喩に満ちた豊かな言葉を武器に「非常時」と真正面から向き合う。ヴォーカルの後藤正文は、「世界を撃ち抜く言葉」を、怒り、悲しみ、悩み、迷いながら、そして恐らく少しばかりの含羞を感じながら、慎重に選び取り、最新型の狙撃銃に装填し、真っ直ぐな瞳でトリガーに指をかける。官邸前の脱原発デモ、太陽光発電を使用したライブ、フリーペーパー「THE FUTURE TIMES」の発行・・・、自らの行動や体験が、3・11以降の風景と一体化し、そしてそれらは猛烈なスピードで撹拌され、鋼の如きメタファーとなって、風化を望む欺瞞に満ちた時代を撃つ。撃ちまくる。そして、彼の英雄的なまでに勇敢なゲリラ戦は、一転して女々しく夜中に書き綴ったかのような私信で自虐的に第1ラウンドを終える。そのラストナンバー「アネモネの咲く春に」は本アルバムの白眉といってよいだろう。


  想像を超える出来事が一度に起こって
  名前のない悲しみだけが相変わらず今日も
  当てどころなく空中に消えました
  まるで君たちのようです 敬具
 
  赤い花は枯れてしまった
  君はずっと幸せだった? Too late


「手遅れ」と歌いながらも、当然のことながら、後藤はまだ希望を捨てていない。赤い花が枯れてしまった今、茶色の花が咲かぬよう十分に警戒しつつ、緑と黄色の花を育てていけばよい。それがいかに困難な道程であるかは、考えるだに気が遠くなりそうであるが。


AFTER THE GOLD RUSH-リトルメロディ/七尾旅人 七尾旅人の2年ぶりのアルバム「リトルメロディ」は、透明な悲しみの海に漂うメッセージ入りの小瓶のようだ。不安な気分をかき立てるホワイトノイズと電子音(ガイガーカウンターの放射線感知音か?)を曲間に挟みながら、アコースティック・ギターの爪弾き、もしくは、アーバンソウルのビートに乗せて、静謐で美しいメロディと喪失感に満ちた言葉が運ばれてくる。


「激しい雨 屋根を濡らす/放射能が 雨樋を 伝って/庭を濡らす 靴を濡らす/あの子の野球ボールを濡らした」(圏内の歌)。「ここは楽園じゃない だけど 描ける限りの 夢の中/Tight rope dancing Baby 今夜だけ 生き延びたい ピエロ」(サーカスナイト)。どの曲も秀逸な出来であるが、瓦礫の街で“帰れない”少女を歌ったソウル・バラード「Memory Lane」が特に素晴らしい。この曲について、旅人は昨年、次のようなツイートを残している。「思い出の小道 誰の中にもある 忘れられない小さな道 なにもかも 根こそぎなくして まだあきらめない小さな少女を 4月に福島の海沿いで みつけて それで作りました」。「災中」の今、かほどに誠実な言葉と音楽との邂逅を果たせたことに、胸打たれ、一筋の光明を見出す思いがする。3・11以降の残酷に切断された日常を詩情溢れるポップスに昇華させた最も優れたアルバムと言っても過言ではないだろう。


AFTER THE GOLD RUSH-ロックンロール イズ ノットデッド サンボマスターの「ロックンロール イズ ノットデッド」もまた、前作から2年ぶりとなるアルバムだ。やはり、2011年は、誰もが、歌うべき言葉を見失っていたのかもしれない。山口隆は、悲しみや不安を終わらせ、とにかく生きよう、死ぬな、と、愚直なまで前向きに「愛と希望」を歌う。このスタイルは賛否両論分かれるところだろう。一歩間違えると、陳腐な応援ソングに陥りかねないテーマでもある。しかし、ぼくは、山口の激しくも美しい咆哮にこそ「非常時の音楽(うた)」にふさわしいサムシングがあると信じてやまない。そして、彼がかつて「僕等はいずれ 誰かを疑っちまうから/せめて今だけ 美しい歌を歌うのさ/悲しい言葉では 何も変わらないんだぜ」と力強く歌っていたことを思い出す。やや猫背ではあるが、山口隆は、確かに太い木の幹のような背骨を持った男なのだ。絶望の淵に佇むすべての少年少女に聴いてほしいアルバムだ。


◆ ◆ ◆
いっしさんのブログに綴られた日々を辿る。記事は昨年2月20日、こー君を新しい家族として迎えた日から始まる。ゴロゴロと寝ころぶのが大好きなこー君。骨ガムを噛むのが大好きなこー君。イタズラをして前歯が折れてしまったこー君。どの記事にも、いっしさんと愛犬の穏やかで静かな日常が綴られている。平穏であるということは、何と素晴らしく、掛け替えなく愛おしく、実は奇跡のように絶妙なバランスの上に成り立っているものであることか。大津波さえこなければ、3月11日も平穏な日常が綴られていたことだろう。こー君を抱いて逃げたいっしさんは、翌月遺体で発見された。こー君はまだ見つかっていない。

若松孝二死す

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-若松孝二 若松孝二監督が死んだ。そのことをつい先程知った。最初は、何か悪いジョークだろうと思った。先週、釜山国際映画祭から元気に帰国したと聞いていたし、何より、あの殺されても死にそうにない若松監督が、車に撥ねられてあっさりと逝ってしまうなんて全く信じられなかった。今もまだ信じられない。忙しさにかまけて、ネットやテレビはおろか、新聞すら目を通そうとしなかった自分自身の怠慢を呪う。


若松監督は、ぼくにとって、一つの富士山であり、また、偉大なる父でもあった。大学時代に「処女ゲバゲバ」と「犯された白衣」を初めて観た時の衝撃は今でも忘れられない。「これは一体何なのだ?」という得体の知れない畸形ないきものに遭遇した時に感じるような原初的な恐怖。同時に強力な磁場の如く惹きつけられるこの上なく甘美な魅力。それらを超える感情を呼び起こしたのは、ぼくの貧しい映画体験においては、デビッド・リンチの「イレイザーヘッド」くらいしかない。


80年代後半、バンドで自主製作したカセットテープに「天使の恍惚」の金曜日のモノローグ「行かなければならない! 最前線へ!」を逆回転で収録したこと、90年代前半に池袋の文芸坐もしくはBOX東中野で観た「現代性犯罪絶叫編 理由なき暴行」と「性賊」にヴェルヴェット・アンダーグラウンドやジャックスを初めて聴いた時と同質の感動とショックを受けたこと、そして、忘れてはならない、ピーター・トッシュ、山下洋輔、陳信輝らの優れて魅力的な音楽は、すべて若松映画を通して知ることになったのだ。


一方で駄目な映画も多かった。本人は気に入っていたようだが「われに撃つ用意あり」などは、遠藤ミチロウではないが“吐き気がするほどロマンチック”でどうにも好きになれなかった。ベルリン国際映画祭で寺島しのぶが最優秀女優賞を受賞した「キャタピラー」も個人的にはあまり感心できる作品ではなかった。いわゆる“器用な映画監督”ではなかったように思う。しかし、出来・不出来にかなりムラがあるところも含め、若松映画が総体として凄まじい情熱と魅力を放射していることは疑う余地のないところだ。であるがこそ、若松監督は、ぼくにとって、一つの富士山であり続けているのだ。


今頃、空のずっと上の方で、盟友平岡正明、赤塚不二夫、大和屋竺、そしてパレスチナのコマンドらと肩を叩き合い、酒を酌み交わしているのではないだろうか。そうであってほしい。安らかに眠れ、永遠の闘士よ。合掌。

1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-フォーク・ゲリラと歌う中川五郎? 昨年来、「雲遊天下 」というリトルマガジンを定期購読している。正直言ってあまり褒められた雑誌とはいえない。特集は、些か行き当たりばったり風であるし、読んでいるこちらが赤面してしまうような幼く拙い文章が堂々の連載記事であったりする。書き手に熟練したプロのライターが少なく、ミュージシャンや同人主体だからであろうか、それにしても、もう少し何とかならぬものかと、頁を捲る度ため息がこぼれる。


しかし、石の多いこの雑誌にも、確かにキラリと光る“玉”がいくつか混じっている。その一つが岸川真さんのエッセイであり、もう一つが、中川五郎さんの「現在(いま)を歌うフォークが未来をひらく」である。特に五郎さんの連載は、一昨年5月にスタートして以来、自らの音楽史を端正な文章で誠実に書き綴っており、その体験者にしか書きえないフォーク黎明期のいきいきとした描写は、読むたびに新たな発見がある。大いに興奮させられる。この連載を読むためだけに定期購読していると言っても過言ではない。


半年のブランクを経て先月下旬に発行された最新号(111号)の記事は、これまでにも増して一段と良かった。それは、フォーク・ゲリラについての極めて重要な一次資料とでもいうべき内容であった。五郎さんは、自らとフォーク・ゲリラとの関係について、「どちらかと言えば仲が良くて、比較的近い位置にい続けていた」「自然に素直に連帯することができた」と語る。そして、親友であった故高田渡氏の自伝「バーボン・ストリート・ブルース」を引用しながら、「渡さんは当時一緒に歌っていたフォーク・ソングの仲間でいちばん仲が良かったが、ことべ平連やフォーク・ゲリラに関しては、彼とはまったく話があわなかった」とし、渡氏の小田実批判や、かの有名な「東京フォーク・ゲリラの諸君を語る」で揶揄したフォーク・ゲリラ像を「捉え方や評価にとても誤解がある」とやんわり否定する。そのうえで、「フォーク・ゲリラは決してエリートでもヒーロー気取りでもなかったし、彼らが誰かに利用されていたり、逆に彼らがマスコミを利用していたようなことはなかったのではないか」との見解を示す。これはとても勇気ある発言ではないだろうか。少なくともぼくは、当時のフォークシンガー及びそのファン達が、フォーク・ゲリラについて腐すことこそあれ、弁護や共感の類の発言をする場面をこれまで見たことも聞いたこともない。そして、ぼくもまた、つい数年前まで渡氏の熱烈なファンであるがゆえの金縛り状態から抜け出せずにいた一人であったことを告白しよう。この五郎さんの見解こそ、ぼく自身、長い間胸につかえて吐き出せずにいた言葉そのものだったのだ。


AFTER THE GOLD RUSH-フォーク・ゲリラと歌う中川五郎? 今号では、フォーク・ゲリラに関する新事実も明らかとなった。それは、「新宿西口のフォーク集会に参加したプロ歌手はいなかった」という定説を真っ向から覆す証言である。五郎さんは、記事の最後を次のような驚くべき文章で締めくくっている。「ぼくは自分がプロかどうかということにはほとんどこだわっていなかったが、69年に新宿西口地下広場で新宿西口フォーク・ゲリラに参加して歌ったことがある」。これを読んで、ぼくの中でどうにも腑に落ちずモヤモヤしていた出来事が何となくすっきりとつながったような気がした。1970年2月、ほとんど敗戦処理といってもいい西口広場裁判の支援集会に高石事務所からただ一人五郎さんだけが参加し、歌で彼らを応援したこと。東京フォーク・ゲリラの実況録音ソノシート「新宿広場'69」に、ゲリラではなく五郎さん自身の歌声で「主婦のブルース」が収録されていたこと。もしかすると、1967年8月発行の「かわら版」に掲載されたという五郎さん作「Aちゃんのバラッド」も、あの「栄ちゃんのバラード」と何か関係があるのかもしれない。


そんなことを考えている中、ぼくは、テレビ(※)に偶然映し出されたフォーク・ゲリラの映像に、五郎さんとよく似た青年を見つけた。その青年は、大群衆で埋め尽くされた新宿西口地下広場、ハンドマイクを持つゴリさんの横で、背筋をピンと伸ばしてギターを弾きながら歌っていた。他人の空似かもしれない。しかし、顔立ちといい、下あごを少し前に突き出した特徴的な歌い方といい、ぼくには、この青年が五郎さんと大変よく似ているように思える。掲載した2枚の写真を見ていただきたい。皆さんはどう思われるだろうか。


※BS JAPAN「MUSIC TRAVEL」(11月19日放送)で、新宿西口地下広場でのフォーク集会の映像が30秒程使われた。


PR: 大手・注目の広告・Web会社の転職はマスメディアン

ぼくの歪んだ90年代よ~ジョー・マカリンデンに捧ぐ

$
0
0

$AFTER THE GOLD RUSH-Joe Mcalinden/Bleached Highlights1980年代と90年代の間には、「深くて暗い川」が流れている。その川が何かは自分でもよく分からないが、確かに“流れているのだ”としかいいようがない。川は、ぼくの心象風景を形成する音楽を、思想を、もっと大げさにいえば人生観をも分断している。

1990年秋、25歳になったばかりのぼくは、休日になると、当時住んでいた京都嵯峨野にある広沢池を眺めながら、半ば無為に時を過ごしていた。ある日、池のほとりに、20台ほどのスクーターの集団がやってきた。大小様々なライトとミラーでデコレーションしたベスパに乗った彼らは、まるで“数年前の自分”のような恰好をしていた。例えば、ポークパイハット、例えば、フレッドペリーやジョンスメドレーのポロシャツ、例えば、千鳥格子柄のスリムなパンツ。ぼくは、その集団に近づき、少しだけ言葉を交わした。GL150のコンディションや関西モダーンズの動向について2、3言。程なくして、彼らは走り去っていった。その颯爽とした後ろ姿を見送りながら、ぼくは、初めて、自分が歳をとったことを実感した。彼らは、確かに“数年前の自分”のように見えるが、今の自分とは全く違う。もう、自分は、ヴィンテージのベスパに憧れることも、ロンズデールのトレーナーを着ることも、ましてや、音楽で飯を食っていこうなどという甘い夢を抱くこともないであろう――。

我ながら幼稚でくだらないと思うが、当時のぼくは、ポール・ウェラーが「In The City」で、激しく、そして力強く宣言した「25歳未満の者だけが 街で光輝く権利を持つ」というテーゼに囚われていた。つまり、25歳になった自分は、もはや若者ではない、と諦念し、まるで余生を生きる隠居のように後ずさりしながら未来に向かっていた。――(以降、本論と直接関係無いため400字程削除)――80年代と90年代を分断する川は、こうして流れ始めた。

AFTER THE GOLD RUSH-The Groovy Little Numbers/happy like yesterdayさて、何故、このようなつまらぬことをだらだらと書いているのか。そろそろ本題に入らねばならぬ。それは、年の瀬に友人から受け取った1通のメールが、この川の存在を今一度ぼくに意識させたからだ。メールには、ジョー・マカリンデンが昨年発表した新譜のことが書かれていた。ジョー・マカリンデン! グラスゴー出身で、ぼくより少しだけ年下のこのミュージシャンの名前は、記憶の奥底に仕舞い込み、無意識のうちに“無かったこと”にしていたある種の感情、ある種の音楽をぼくの中に呼び覚ました。そして、それらが、紛れもなく、この “川”の本流を形成しているような気がしてきたのだ。

90年代初頭、同世代、もしくは、より若いミュージシャン達が、(ぼくにとって)魅力的な音楽を次々と発表し、商業的にも成功を収めはじめていた。アメリカでは、ニルヴァーナ、ダイナソーJr.、ヴェルヴェット・クラッシュ、イギリスでは、プライマル・スクリーム、ティーンエイジ・ファンクラブ、BMXバンディッツ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、等々。しかし、ぼくは、これらのバンドの盲目的なファンであったわけではない。むしろ屈折したジェラシーのようなものを常に感じていた。「彼らは、まるでかつての自分のようだが、今の自分とは全く違う」。身の程しらずにもそう感じていた。そして、その神経症的で妄想にも似たネガティブな感情が、先のポール・ウェラーのマニフェストを源流とする“川”の大きな流れとなり、ぼくの音楽観を歪め、引き裂いた。つまり、川は、自分自身のあまりにも早すぎる精神の老化と「若さへの嫉妬」が作り出した幻影だったのであろう。

$AFTER THE GOLD RUSH-Joe Mcalinden&Superstar思えば、ジョー・マカリンデンは、グラスゴー勢及びアラン・マッギー率いるクリエイション・レコードの面々が一世を風靡したあの時代においても、そして現在に至るも、一貫してポップスターとしての華やかな成功とは縁遠かった。80年代末、グルーヴィー・リトル・ナンバーズ名義で、ソーダ水の弾けるが如く瑞々しく胸躍るポップチューン「Happy Like Yesterday」をものにし、90年代には、BMXバンディッツのメンバーとして、ダグラス、ノーマンらと畢生の名曲「Serious Drugs」を共作し、ヴォーカルを担当、さらに、自らのバンド、スーパースターにおいても「Let's Get Lost」「Every Day I Fall Apart」等の名曲を発表し続けたにもかかわらず、である。

運も実力のうちと言ってしまえばそれまでだが、ジョーの卓越した作曲能力――、それは、ポール・マッカートニーやトッド・ラングレン、さらにはバート・バカラックをも想起させる、を思うと、その不運は、音楽界全体の不幸ではなかったのか、とやや大袈裟に嘆きたくもなる。ぼくは、そんなジョーが不憫でしょうがない。そうなのだ、90年代、彼だけは、ぼくの歪んだジェラシーの対象ではなく、純粋にファンとして接することのできた数少ないアーティストだった。(しかし、その要因が、彼の素晴らしい音楽への共感のみならず、その不憫さへの同情もあったとするなら、僕は自らの驕り高ぶりを徹底的に自己批判しなければならない。)

ジョーの新作は、昨夏、エドウィン・コリンズの新レーベルAED RecordsからLinden名義で発表された。そのアルバム「Bleached Highlights」は、躍動感に満ち、水彩画のように透明で、少しだけほろ苦い、そんな美しいメロディーと艶のある歌声でいっぱいだ。ここには、以前より贅肉をそぎ落とし、やや筋肉質になったジョーがいる。そして、この心地よい音楽に身を委ね、目を閉じれば、青空をバックにジャンプする2匹のイルカが見える。ブラウンバードが歌う――Back to Glasgow. Back to 90's. ぼくは川の源流に戻って、あのモッズ少年達と再会しよう。

Linden - Brown Bird Singing

東京戦争戦後秘話

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-東京戦争戦後秘話 あゝ、ついに大島渚も逝ってしまった・・・。昨夕耳にした訃報は、まるで戦後日本の終焉を告げるレクイエムのようにきこえた。そういう人だった。自分の意見をはっきりとよく通る大きな声で主張し、己の権利を守るためには権力と真っ向から対峙することも辞さなかった。すなわち、戦後民主主義の終焉。この実にくだらない、阿呆らしい、しかし限りなく絶望的な政治状況の中で、戦後日本を生きた最良の人々が次々と退場していく。そして、彼が最後の扉を閉めたような気がした。若輩者にとって、それは、悲しいというより、ただただ寂しく、ひたすら虚しい。

創造社時代の大島渚の諸作は実に冴えていた。あたかも芸術家が魂を込めて造形した美しき爆弾のようだった。「日本春歌考」、「少年」、「儀式」、そして「東京戦争戦後秘話」。(「風景論」の記述に正確性の欠ける箇所はあるが)この映画について6年前某所に書いた文章を再掲する。


◆  ◆ ◆ ◆
かつて、映画評論家の松田政男氏は「風景は権力だ」と言った。つまり「風景は権力が作っている。俺たちは映像でそれを奪還する」ということだ。この「風景論」は、足立正生・佐々木守氏らとの共同制作による「略称・連続射殺魔」(69年)になり、さらにはより尖鋭的な政治的アジテーションを加え、あの悪名高き「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」(71年)へと昇華されていった。

だが、僕にとって「風景論」を象徴する映画といえば、大島渚監督が、原将人の若き想像力を、瑞々しい“創造力”に転化させた(実は「利用した」「搾取した」という動詞の方が正しいのかもしれないが)「東京戦争戦後秘話」(70年)だ。下町の商店街、ポスト、公衆電話、ガードレール・・・、どこにでもある東京の風景を、「あいつ」から奪還するために、地図とゲバ棒とマシンガン片手に「戦闘開始」する象一と泰子。それは国家権力に奪われた「闘争の記録」のフィルム奪還闘争のストーリーと重なり、妙にしらけながら、虚無的な結末へと収斂していく。武満徹の音楽も、ガラス細工のように繊細で美しく、しかし、その裏で凶暴な牙を向いている感があり、あの挫折感と不思議な透明感に満ちた映像と実にうまくマッチしていた。
「あいつの風景なんてないんだ、風景なんて同じだよ。すべての風景にあいつがいるし、すべての風景にあいつはいないんだ」と言い残し、ビルの屋上から身を投げた象一は「あいつ」に勝ったのか、それとも負けたのか? この映画が、「ある世代」を象徴していると解釈するなら、その結論は書くまでもないだろう。(20071118日)

敗北の夏

$
0
0

AFTER THE GOLD RUSH-The Pastels/Slow Summits 路面のアスファルトがじんわりと溶け出し、焦げたゴムと排気ガスの匂いが熱風に乗って漂う夏、おれたちは、ウスバカゲロウが低空を旋回しながら悶え死ぬかのように、無様に負けた。もう二度と息を吹き返せないほど、徹底的に負けた。おれたちは、もうとっくの昔に、拠って立つ思想も、降るべき旗も失ってしまった。矛盾と葛藤を抱えつつ、偽りの党に票を投じ続けざるをえない、この心の闇の深さを誰が分かろうか。


2013年の冬から春にかけて、おれは、一つの長いゞ文章を世に出すために、ほぼすべての時間と労力を費やした。おれの仕事は、いつだって匿名だ。誰かの影武者で、ゴーストライターだ。そして、おれと同じような無名のコマンドが、今も日本のあちこちで走り回り、キーボードを叩き、冷や汗をかきながらギリギリセーフのプレゼンをしているにちがいない。生きていくために。


朝、油が抜けてチェーンがギシギシと軋む自転車のペダルを漕ぎながら、駅へと向かう。ふいに、照りつける青空を見上げてみる。おれたちは不甲斐なく負けた。でも、何に? そもそもおれは本当に闘ったのか? 苦笑しながら思う。すべては、おのれの覚悟の無さを糊塗するためのエクスキューズであり、見え見えのアリバイ工作にすぎないのではないか。だって、地下鉄の窓ガラスに映ったおれは、まるで飼いならされた従順な家畜のようじゃないか。


パソコンを立ち上げる。ユーストリームでは、笑顔のあのひとが、黒い十字が描かれた真白のTシャツを着て、懐かしい唱歌を歌うかのように、朗らかに、快活な声で、小さなライブハウスの客席に向かって話しかけている。無私の心で闘うひとは、どうしてこれほどまでに爽やかで清々しく、そして真っ直ぐな姿勢で立ち続けていられるのだろう。信じがたい程のバイタリティの裏側にある辛さや痛みを思うと、その輝きは強力な太陽光のようにも思える。ミセス・サニーチャイルド、あなたがいるから、地下広場は、今もあの時と一直線につながっていることができる。


さて、おれは、今、ギシギシと軋む錆びついた自転車のチェーンにオイルを注すべきか、それともほかの何かをすべきか、一瞬迷った後、これを書き始めた。湿度の高い部屋に、まるでそこだけ岩清水が流れているかの如く涼しげに響くスティーヴン・マクロビーの調子外れなヴォーカル。それがおれの背中を押す。この夏は、パステルズばかり聴いていた。16年ぶりに再会した「スロウ・サミット」は、連戦連敗のように思えたスティーヴンが、実は、誰よりも先頭を走っていたことを証明した奇跡のように尊いアルバムだ。音の壁の向こう側から、眩い程の希望の光が射す。それは、屈辱と蹉跌から解放された真の勝者だけが奏でることのできる、神聖なるアンセムのようだ。


おれたちの敗北を、そして、耐え難い矛盾と屈辱を、薄光の希望に転化できる時が来るとするなら、それは、従順な家畜に凶暴な牙を剥く力が残っているか否かにかかっているのではないか。その時は、怯まず、無慈悲に、奴らの屍を踏み越えていこう。今は無様なおれたちよ。

永遠の少年はドラム猫の夢を見るか

$
0
0

  この英国菓子ファッジのように甘く、ブランケットに包まれているみたいに心地良く、同時にブラックコーヒーの如くほろ苦い愛すべき映画を観て、ぼくは、80年代以降のグラスゴーの音楽シーンをある意味で象徴するダグラス・T・スチュワートというチャーミングなロックミュージシャンに多大なるシンパシーを感じずにはいられなかった。

「Serious Drugs -  Duglas and the Music of BMX Bandits」。ダグラスと彼のバンドであるBMX バンディッツの20数年間の歴史を追ったドキュメンタリーフィルムだ。自転車音痴で、楽器はオモチャの笛しか吹けず、お世辞にも歌が上手いとはいえないダグラスが、BMX (自転車モトクロス)を名乗り、ハミングで作詞作曲し、リードヴォーカルとしてバンドを牽引する。かくも矛盾で引き裂かれそうな自らとバンドの在り様が、幸せな午後の陽だまりにも似たほのぼのとしたポップスに小さなひっかき傷を残し、喪失感、焦燥感、もしくは絶望、哀しみといったノイズを発生させる。

それにしても、齢49才のダグラスは、まるで10代で成長を止めてしまったプエル・エテルヌスのようだ。彼の部屋にあるのは、チンパンジー、アヒル、犬などの動物のぬいぐるみ、脱ぎ捨てられた何足ものコンバースのスニーカー、シンディ人形のコレクション。深夜、セルジュ・ゲンスブールやブライアン・ウイルソンのお気に入りの曲をPCで編集し、友人達に贈るコンピテープを作成する。空腹になると、チーズトーストの歌を口ずさみながら、ひとりキッチンでパンを焼く。その姿は無邪気で悩みなど何一つ無いようにも見えるが、実のところは、暗闇の中で道に迷い、怯え、震え、立ちすくんでいる。夜毎、絶望に押しつぶされそうになりながらノートに文字を綴る。例えば次のような――。
「ダグラスvsリアルな世界。時に現実は、あまりにもリアルすぎて、別の世界へ逃げ出したくなる。アイスクリームや可愛い女の子やお喋りをする動物の友達がいる、美しい歌の世界へ――」。
ナイーブすぎるだろうか。いや、そんなことはないだろう。隣人への憎悪心を膨らませ、殺伐としたサバイバルゲームに興じる「背広を着た大人達」の方が、ぼくにはずっと狂気じみた人格破綻者に見える。

「バンドを始めた頃、ほとんどのロックバンドが、攻撃的で威嚇的な感じで、女性の尊厳なんて関係無いと考えていたようだけど、そういうのは嫌いだった」「ジム・モリソンになんかなりたくない。彼は、音楽的にも、人間的にも、ぼくと最も反対に位置している人だ」。
このように公言して憚らないダグラスは、一方で、とても強い人だと思う。自分の信じる音楽や生き方を貫き通し、セールスが悪くとも、それらについては絶対に曲げることがない。そして、逆境をバネにして素晴らしい作品を作り上げる。映画のタイトルにもなった「Serious Drugs」は、自身のハードな鬱病体験を通して生み出された珠玉のポップソングだ。ジョー・フォスターが絶賛するとおり、この曲は、ロネッツの「Be My Baby」にも匹敵する必殺のメロディーラインとシンプルで美しい歌詞で構成され、永遠のマスターピースとしての風格を漂わせる。当然、そのプロフェッショナルな仕上がりは、ノーマン・ブレイクとジョー・マカリンデンの多大な貢献があってこそのものであるが。

そうなのだ。彼は、友人にとても恵まれている。上に挙げたノーマン、ジョー、そして、ショーン・ディクソン(ex.スープ・ドラゴンズ)、ユージン・ケリー(ex.ヴァセリンズ~ユージニアス)、フランシス・マクドナルド、皆、BMX バンディッツのメンバーだった。今は、元パール・フィッシャーズのデヴィッド・スコットがブレーンとなって、ダグラスのイメージを具現化する手助けをしている。

誰もが、バンディッツのメンバーになりたいのだ。カート・コバーンも「もし、他のバンドに入れるのなら、BMX バンディッツになりたい」と言っていたじゃないか。共に過剰なまでに繊細で傷つきやすいパンクスであったが、ダグラスは現在もなお生き延びて、バンディッツ号の船長であり続けている。夜ごと、チーズを乗せたパンをグリルで焼き、絶望的な言葉をノートに綴りながら。ぼくは、そんな彼が愛おしくてたまらない。もっと早く彼のことを知り、バンディッツになりたかった。
 
◆そんなダグラスとグラスゴーの友人達が、今月来日します。
ダグラス・T・スチュワート(BMXバンディッツ)+ユージン・ケリー(ヴァセリンズ)+ノーマン・ブレイク(ティーンエイジ・ファンクラブ)のジャパン・ツアー2013

◆BMXバンディッツについては、chitlinさん(現・北沢オーストラリア)のレビューが大変詳しく、彼の豊富な音楽知識にあらためて感心させられた。

◆BMX Bandits - Serious Drugs

失われたものだけが美しいのだ

$
0
0

大変危険な法律が信じられないスピードで成立してしまった。12月6日深夜、130人の暴漢に襲われ、惨殺されようとする民主主義の末路を目撃した。冬の永田町で遭難した奴の無念に報いるためにも、恥知らずな下手人一人ひとりの名前をしっかりと胸に刻んでおこう。

ぼくは今、ちっとも悲しんでいないし、あきらめてもいない。有り体に言うなら、やる気満々だ。民主主義を足蹴にした連中は、民主主義によって報復されねばならぬ。その日は必ずや来るだろう。だから、あなたもあきらめてはいけない。嘆きや挫折は犬の糞にも値しないヒロイズムと甘ったれたナルシズムしか生み出しはしない。そんなものは、ロフトのご隠居にでもくれてやれ。

「10年後に会おう、君らはきっと乞食になっているだろう」。
1971年1月24日、タイガース最後のステージを終えた瞳みのるがメンバーに言い放った激烈な言葉が頭から離れない。なんと傲慢で、純粋で、悲しい程の憎しみと愛に満ちた言葉なのだろう。先月末刊行された磯前順一著「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた」(集英社新書)は、過去に発表され、そして今や誰も顧みることのなくなった膨大な資料を引用しながら、グループサウンズを代表するバンドの実像を明らかにした力作だ。ミクロ単位では既知の事実であっても、それらを時系列に沿って再構築すると、マクロとして新たな真実が浮き彫りになることを、タイガースを素材に改めて試みた学術書とも言えよう。

イガースには名曲が多い。初期のすぎやまこういち時代なら「落葉の物語」、中後期の村井邦彦時代は「廃墟の鳩」「美しき愛の掟」。そして最後のシングルは、クニ河内が提供した「誓いの明日」。CSN&Yを日本的に解釈したらこうなるのかと思わせるような美しくも奇妙なナンバーだった。今でも時折ふっと口ずさんでしまう程、好きな歌である。

さて、こ
の週末、ぼくがずっと考えていたのは、金森幸介の「箱舟は去って」で歌われる次のフレーズだ。

 一体何を守ろうというのか 守るべき何があるというのだ
 今 ただひとつ確かな事は 失われたものだけが美しいのだ

何を考えていたのかは、ぼくの特定秘密なので、ここには書かない。


ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた (集英社新書)/磯前 順一
¥819 Amazon.co.jp

青年は荒野をめざす(前編)

$
0
0

チューリップのアップリケ 
はちみつぱい~ムーンライダースのドラマーであり、ヴォーカリストであり、何より、優れた作曲家であったかしぶち哲郎氏が12月17日に亡くなった。享年63歳。ほどなくして、22日、東京新聞朝刊の1面下のコラム「筆洗」(朝日新聞でいうところの「天声人語」)に彼を追悼する記事が掲載された。ヒット曲も無く、バンドリーダーでもなく、一般に広く知られているとは言い難いミュージシャンの死を悼む記事を書いた記者は、1983年に発表された「リラのホテル」を絶賛していること等から察するに、多分50代で、相当な音楽(ロック)愛好家ではなかろうか。

しかし、その内容は、同世代もしくは年長のオールドロックファンに対して挑発的なものであった。記者は冒頭次のように書き始める。「ロックが若者の音楽だったのは過去のことで、現在その市場を支えているのは間違いなく中高年である。人生を季節に例えれば、二十歳代は盛夏だろうが、日差しの強い季節を取り返したくて中高年はあの音楽と手を切れない」。そして、二万円近い海外アーティストのコンサートに出かけ、昔のCDのリマスター盤を大量購入し、楽器店でフェンダーのギターを買おうかどうかで悩んでいるのは中高年であり、コンサートも同窓会と同じで、アーティストの健在ぶりを確認し、客同士が互いの老いた姿を見て人生を振り返る(場となっている)、と続く。

ここでぼくは、最近見た2つのコンサートでの光景を想起する。1つは、14日に日比谷公会堂で行われた岡林信康の「デビュー45周年記念コンサート」。開演前の客席とロビーに溢れていたのは、 1960年代の若者たち。白髪、地味なジャンバー、鼠色のコート、四方から響くしわぶきの音。皆、齢60はとっくに超えているであろう。その彼ら、彼女たちが、ロビーのあちこちで互いに肩叩き合い、再会を喜びあっている。ぼくには、とても胸熱くなるものがあったが、20代、30代の若者なら、まるで全国老人クラブ大会に迷い込んだかのようなアウェイ感に戸惑ったに違いない。

もう一つは、11月3日に早稲田祭で行われた細野晴臣のライブ。こちらは、テレビで一部のシーンを観ただけなので正確なことは分からないが、画面で見た限りは、(学祭というシチュエーション上当然といえば当然であるが)、岡林とは対照的に20代の若者を中心に30代、40代まで幅広い世代が多数集まり、体をゆっくり揺らしながら、バンドの演奏を堪能していたようだ。

岡林信康67歳、細野晴臣66歳。ほぼ同年代の二人の、同時期に行われたコンサートがかくも異なる光景を見せたのは、ミュージシャンとしてのキャリアの違いもあるだろうが、それ以上に、ぼくは、岡林が恐らく一生抱え続けねばならぬ「ある世代の思い」の重さにその要因があるような気がしてならない。つまり、戦後ベビーブーマー世代にとっての岡林は、友と肩組み合って歌い、議論し、殴り合い、殺し合った、あの凄まじいまでのエネルギーと情熱に溢れ、同時に激しい暴力と死が日常であった青春のイコンであり続けているのではないか。であるからして、彼らが求める岡林は、美空ひばりと意気投合し演歌を歌っていた頃でも、ムーンライダースをバックに「霧のハイウェイ」を歌っていた頃でもなく、ましてやエンヤトットであろうはずもなく、1968年から70年にかけての3年間、つまり、くそくらえ節、ガイコツの歌、山谷ブルース、友よ、チューリップのアップリケ、手紙、私たちの望むものは、等のプロテストソングを歌っていた頃こそが、「私たちの岡林信康」なのではなかろうか。そして、その「思い」が強すぎるがために、彼を他の世代から断絶させ、結果、客席は「同窓会」状態になっているような気がするのだ。誤解のないように書いておくが、岡林のコンサートが懐メロ大会になっているわけではない。初期の代表作は「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」などごく一部を除き依然として封印し続け(この点はもっと柔軟であって良いと考えるが)、弾き語り、ロックバンド、エンヤトットの三部構成で、新しい世代にも十分に楽しめる内容となっている。だからこそ、次にバトンが繋がらないこの状態は、しごく勿体ないと思ってしまう。

もう一つ例を挙げよう。10月18日に、渋谷O-nestで行われた、ダグラス・T・スチュワート(BMXバンディッツ)+ユージン・ケリー(ヴァセリンズ)+ノーマン・ブレイク(ティーンエイジ・ファンクラブ)のライブ。彼らの全盛期から推察し、客層は30代後半から40代が中心ではないかと予想していたが、意外にも20代のお洒落な男子と女子が多数集まり、オールスタンディングでの約2時間、若い熱気でむせ返るようであった。

らにもう一つ、フジロックやサマーソニックなど毎年恒例の夏フェスを想起してみよう。勿論、ぼくのような40代のロートルも参加してはいるが、中心となっているのは、20代、30代の若者達ではないのか。あの殺人的な猛暑の中、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、音楽を楽しむような芸当は若さなくしてできるものではない。高齢者? 自殺行為でしょう。

さて、ここで問題となるのが、「筆洗」氏の言うロックとは何を指しているのかという点であるが、だらだらと長くなりすぎたため、続きは次回に。


青年は荒野をめざす(後編)

$
0
0

青年は荒野をめざす/ザ・フォーク・クルセダーズ 
2013年は牧村憲一の年であった。同意してくれる方が何人いるかは分からないが、少なくともぼくにとってはそうだった。自著「ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989」の刊行、「エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る」の監修、さらに、電子書籍「NEXT」での自らの音楽半生を語るロング・インタビュー。これまで公のメディアで自身のキャリアを語ることを極力避けていた牧村氏が、ようやく重い口を開き始めたようにも思えた。これらを読んでぼくは、J-POPに変貌する以前の日本のポップスが持っていた独創性や革新性、さらには豊かな知性にあらためて驚かされた。それは、欧米であるなら、ロックミュージックが60年代半ばから70年代初頭にかけて獲得した財産であり武器のような気がした。対して、日本において“ロック”と称される音楽の、何と貧しく、野暮ったく、定型的で不自由であることか!

日本にディランはいるのか? レノンはいるのか? ルー・リードはいるのか? すなわち、知性と文学性と革新性と豊かな音楽性を兼ね備えたロック・ミュージックを創り出し、メジャーなフィールドで勝負を挑むミュージシャンはいるのか? 残念ながらぼくの乏しい音楽体験では、1984年に「VISITORS」を発表した時点の佐野元春しか、それに該当する人物を思い浮かべることができない。

ここで、前回の宿題に戻る。東京新聞の「筆洗」氏が、今や中高年の慰みものと揶揄した“ロック”とは何を指しているのか、についてである。それは、音楽の一様式としてのロックなのか、それとも、精神性としてのロックなのか、はたまた、ローリングストーンズ、ポール・マッカートニーなどの、来日しては、セレブや財布に余裕のある中高年相手に荒稼ぎをする“往年のロックスター”のことなのか?

答えはあえて書くまでもないだろう。ドラム・ベース・ギターで演奏する“様式としてのロック”は、今も若者の重要な表現手段であり続けているし、精神性としてのロックは、アティチュードの問題であり、それは“名ばかりロック”や“往年のロックスター”とは別のところで脈々と生き続けている。つまり、相当なロック愛好家であろう「筆洗」氏は、図らずも自らのロック観が、極めてステレオタイプで小児病的な「ツェッペリン、ストーンズ、クラプトンこそすべて!」と陶酔調に叫んでしまいそうな、“ロックスター史観”に囚われていることを露呈してしまったようである。

さらに、もう一点異論を呈すなら、ぼくは、あの裏切りと妬みと恥辱でヘドロ状に澱みきっていた二十歳代を盛夏だなどとは全く思わないし、若い頃を懐かしんでロックを聴いたことなどこれまで一度もない。ただ、そこに素晴らしい「音楽」があるから、いまだに手を切ることができないだけの話だ。

牧村氏監修の「エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る」では、残念ながら触れられることなく終わっているが、ぼくは、ザ・フォーク・クルセダーズが、解散後の1968年12月に発表したシングル「青年は荒野をめざす」こそ、加藤がフォーク~ロック~ポップスという未開の地の開拓者として生きることを宣言したステートメントのように思えてならない。それは、五木寛之の言葉を借りて次のように歌われる。

 ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて
 さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ
 いま 青春の河を越え
 青年は 荒野をめざす

思えば、岡林が「自由への長い旅」や「私たちの望むものは」で歌っていたテーマも、孤高であり、変革であり、同時に荒野を切り拓く者だけが抱く怖れや不安であったように思う。牧村氏の音楽半生も、やはり孤高であり、怖れと格闘しながら突き進んだ開拓者としてのそれであった。ロックは音楽様式の一つにすぎない。しかし、革新的な精神性は、ジャンルを問わず存在する。そして、そのような孤高の精神に貫かれた音楽だけが、いつの時代も若者の胸を打つのだ。

Phew - Seinen wa koya o mezasu(青年は荒野をめざす)

さらば十二月の旅人よ

$
0
0
さらばシベリア鉄道/大瀧詠一 
大晦日に大瀧詠一氏の訃報を聞いて以来、ぼくの思考は半ばフリーズした状態のままで、自分にとって彼の存在がこれ程まで大きかったということに今更ながら驚き、戸惑ってすらいる。しかし、あまりにも早すぎるではないか。まだ65歳である。7月には戸井十月氏、8月には山口富士夫氏が共に64歳で、9月には模索舎の創設者である五味正彦氏が67歳で、そして12月にはかしぶち哲郎氏が63歳でこの世を去った。戦後ベビーブーマー世代と称される先輩達の今生を駆け抜けていくスピードの速さには、ただただ言葉を失うばかりである。

昨夜、大瀧氏への個人的な思いを4千字程書き連ねたのだが、今読み返してみて、すべて破棄することにした。批評家めいたことは今更何千字書こうが全く意味がないのだ。失われてしまってから“if”の話をしても遅きに失している。だから今は、大瀧氏の冥福を祈りつつ、ただひたすら彼が残した素晴らしいポップスに浸っていようと思う。

1981年6月1日に新宿厚生年金会館で行われた「A LONG VACATION」コンサートのプロショット映像の極一部をYouTubeで観ることができる。鮮やかな黄色いシャツに身を包み、アコースティックギターを弾きながら「君は天然色」を歌う大瀧氏は、時折はにかんだような微笑を浮かべ、ぼくにはそれが、あの人懐っこいジョン・セバスチャンのスマイルとだぶって見えた。共にアメリカンポップスの豊かさと楽しさをぼくたちに教えてくれた偉大なミュージシャンである。この日の映像のすべてが公式に発表されることを切に願う。

大瀧氏の葬儀と告別式は、4日、自宅近くの斎場で近親者と関係者のみで執り行われたという。参列したかつての盟友松本隆氏が綴ったツイートはまるで一編の詩のようであった。「北へ還る十二月の旅人よ。ぼくらが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だね。 なぜ謎のように『十二月』という単語が詩の中にでてくるのか、やっとわかったよ。 苦く美しい青春をありがとう。」

大瀧詠一氏に関連して以前書いた文章をまとめてみた。新年早々の恥さらしである。
五線譜の夜盗(2011-01-29)
我が心のロング・バケイション(2010-08-22)
極私的音楽ヨタ話77-06の旅 その7(2006-05-28)
ごまのはえ私論(2006-03-12)
文藝別冊 大瀧詠一(2005-12-03)

ターン・ターン・ターン

$
0
0

 

結果はすぐに出た。全く無意味な共倒れ。団結すべきであった兄弟は、まるでカインとアベルのように憎しみあい、罵りあい、引き裂かれた絆は、もう二度と縫い合わせることができない程ズタズタになってしまった。「この会場に社会党の関係者いますか? いませんか? 共産党の関係者は? 労働組合の組織の方は? いませんか? おかしいな。おかしいよ。なんでこうなんだべ」。99歳のジャーナリストむのたけじ氏が発した叫びが胸に突き刺さる。老体に鞭打ち、日々の暮らしにべっとりとまとわりつくあのいやらしい世間体や体裁ってやつ、もしくは恥も外聞もかなぐり捨て、右へ右へと突き進む時代の流れに精一杯抗おうとする先輩達の姿を目の当たりにし、翻って我が身の不甲斐なさに深く恥入るしかなかった。

この出来の悪い喜劇のような同士討ちを経て、いまさらながらはっきりしたことが一つだけある。偽りの党は、悪い意味で、何一つ変わっていなかったということ。唯我独尊の道を歩み、党利党略に満ちた政治運動を続ける彼らこそ、同じ思いを抱く“私たち”の結集を阻む最大の障壁であることがよく分かった。ならば、今この瞬間から、“私たち”は、バラバラにされないための準備をせねばならぬ。断じて政治運動ではなく、決して殺さず、殺されず、隣人と理解しあい、共に生きていくための決然とした意思表示を。

先月末、94歳で亡くなった偉大なるフォーク歌手であり、ソングライターであり、バンジョー奏者であり、ヒューマニストであったピート・シーガーは、50年代末の冷戦期に、旧約聖書「伝導の書」第3章を引用して、かの名曲「ターン・ターン・ターン」を書き上げた。それは、次のような示唆に富んだ言葉が歌われる。

  得る時もあれば
  失う時もある
  引き裂く時もあれば
  縫い合わせる時もある
  愛する時もあれば
  憎む時もある
  平和(和解)のための時も――
  誓って言おう 今ならまだ間に合うのだ


そして、この燻し銀のようなフォークソングを、世代を越えて思いを繋ぎ、ティーンエイジャーの少年少女が踊れるポップでダンサブルなビートミュージックに昇華させたザ・バーズに、優れたバトン走者にも似た誠実さとさりげない凄みを感じる。“私たち”が繋がっていくためのヒントも、そこにあるのではないか。

◆Pete Seeger - Turn! Turn! Turn!


◆The Byrds - Turn! Turn! Turn!

続・1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――

$
0
0

新宿西口フォークゲリラ集会で歌う中川五郎

誰かがうろ覚えで書いた頼りなげなエピソードが、別の誰かの文章に引用され、それがさらに孫引きされていくうち、もはや誰一人として疑う余地の無い強固な「史実」となってしまうことはままあるものだ。フォーク・ゲリラに関して最も広く流布していると思われる「新宿西口のフォーク集会に参加した高石事務所のアーティスト(もしくはプロ歌手)は一人もいなかった」という定説も、その典型的な例と言えるだろう。この点についてぼくはかねてから、フォーク・ゲリラについて些かなりとも真面目に知りたいと思う者なら、僅かばかりの金と労力を惜しむことなく、最低でもSMSレコードの「'69日比谷フォークゲリラ集会」位は中古盤屋で入手し、その中でゲリラ自身の口から発せられる「確かに高石友也は新宿西口に来て歌った」との証言と世に流布する定説との食い違いに少なからぬひっかかりを感じるべきだと思っていた。映画の撮影が絡んでいたとはいえ、高石が新宿西口地下広場のフォーク集会に飛び込んで歌ったであろうことは、ゲリラと高石とのやりとりを聴く限り、まず間違いない事実と思われるからだ。

そして、一昨年の10月に発行された「雲遊天下(111号)」で、中川五郎さんが、まさにこの定説を真っ向から覆す重大な新事実を明らかにされたことは、当ブログでも既に紹介したところである(「1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――」参照)。その紹介記事にぼくは、ある仮説の下、五郎さんと大変良く似た青年が東京フォーク・ゲリラの若者達と一緒に歌っている写真を2枚掲載した。これは、1969年の5月から6月のいずれかの土曜日に撮影された新宿西口地下広場のフォーク集会の映像に本当に一瞬(時間にして2、3秒程)映っていたものだ。

これについて、先週、五つの赤い風船で活躍されていたミュージシャンの長野たかしさんから、次のような貴重なコメントをいただいた。「五つの赤い風船に入る前、中川五郎さんと一緒にフォークキャンパーズで活動していた私なので、この写真は中川五郎さんに間違いないと思います」。驚いた。長野さんといえば、自らも書かれているとおり、1967年夏の京都の神護寺で行われた第1回関西フォークキャンプに端を発する音楽ユニット「フォークキャンパーズ」のメンバーとして、五郎さんを高校時代から大変良くご存じの方だからである。さらに、東京フォーク・ゲリラの中心メンバーであった大木晴子さんからも、「写真は五郎さんだと私も思います。でも広場には、歌う人、語る人、みんな同じ、誰だからなんて誰も思わないし、べ平連の良い心意気が活きていました。ゴリちゃんや吉田くん! いま思うとギターの上手な人が一緒に弾いて歌っていますね」という当事者にしか書きえない臨場感溢れるコメントをいただくことができた。

お二方のコメントで、ぼくは、ようやくこの写真に写っている青年が、19歳当時の中川五郎さんであることを確信することができた。そして、今日、友人Georgesさんから頂いたメールで、遂に決定打と言える証言を知ることができた。それは、2月16日に五郎さん御本人が発信された次のツイート。「1969年新宿西口フォークゲリラの集会で歌っているぼくの姿です。初めて見ました。ブログの文章もとても嬉しいです」。
中川五郎ツイッター
ありがとう、五郎さん! これで「定説」は完全に覆った。私たちは、高石事務所のアーティストであった五郎さんが、フォーク・ゲリラと連帯し、新宿西口で歌ったことを証明する揺るぎない“物証”を手に入れることができたのだ。

フォークゲリラに関しては、昨年、武蔵野フォークの源流であり、69年当時、吉祥寺駅を拠点に最も先鋭的に活動していた幻のフォーク集団「西部戦線」の元メンバーの方から貴重な証言を多数いただくことができた。それを1年以上経った今もまとめることができていないのは一重にぼくの怠慢ゆえであるが、敢えて言い訳交じりに書かせてもらうならば、個人的に検証し再構築した私論に近いエピソードが、自分の知らない間に引用され、小説等のモチーフに使われていくことへのある種の重圧感と恐怖心も筆を鈍らせた。しかし、意を決して、ぼくは飛んでみようと思う。4月を目途に。そして、その前に、フォーク・ゲリラと同じ1969年に活動した伝説のロック・バンド「エイプリル・フール」に関し新たに知ることができた二、三の事柄について記事を書かねばならない。

エイプリル・フールとミュージカラーレコードに関する覚書

$
0
0


大方の人が関心を持たないであろう些末な事柄に強く惹かれてしまい、結果として、「木を見て森を見ず」の例えにある通り、本質を見失ってしまう、そういう困った性分が自分にはあるようだ。一方で、「神は細部に宿る」という言葉にあるとおり、ディテールに拘ってこそ本質が見えてくるような気もしており、全くもって面倒で、鬱陶しい稟質なのである。まぁいい。酔狂も偏狭も、全ては自己満足なのだから。

細野晴臣と松本隆の両氏がはっぴいえんど結成前に在籍していたニューロックバンド「エイプリル・フール」に関してこれから書こうとしている事柄も、世間一般の人には甚だどうでもよい話に違いない。また、マニアの方には既に周知の事実なのかもしれない。しかし、少なくともぼくにとっては、かなりのインパクトを伴って知りえた情報であり、さらに、GSとニューロックが分断されたものではなく、シームレスにつながっていたことの証のようにも思えるので、あえて書き留めておこうと思う。

エイプリル・フールは、1969年9月に日本コロムビアから唯一のアルバム「エイプリル・フール」をリリース。翌10月にあっけなく解散したことは周知の事実であるが、実はそれ以前に、日本ミュージカラー製造株式会社(以下「ミュージカラーレコード」)がプレスしたサンプル盤が存在するのだ。いや、それ自体はさして特筆すべき話ではない。よくある、希少な見本盤が発見されたという、コレクターの密やかな自慢話にすぎない。驚くべきは、この盤のレーベルに印刷されたアーティスト・クレジットである。そこには、カッコ書きで「THE FLORAL」とあるではないか!

ミュージカラー盤レーベル


ここで、ロック考古学的なおさらいをするならば、THE FLORAL、すなわち、ザ・フローラルとは、モンキーズ・ファンクラブのマスコット的存在であった典型的なアイドル系GSバンドである。メンバーは、小坂忠(Ⅴo)、菊地英二(Gt)、柳田ヒロ(Key)、杉山喜一(B)、義村康市(Dr)の5人。1968年8月に、ミュージカラーレコードから、宇野亜喜良作詞、村井邦彦作曲の「涙は花びら」でデビューしている。ちなみにこの曲は、ドノヴァンの「Legend Of A Girl Child Linda」や「Writer In The Sun」といったブリティッシュ・フォークナンバーに大変よく似た雰囲気を持つクラシカルで幻想的な佳曲である。しかし、売れなかった。10月には、モンキーズと武道館で念願の共演を果たしたものの、同月に発売された第2弾「さまよう船」も不発。以後、彼らはまるでドサまわりの営業バンドのごとく、大銀座祭でパレードする山車の上で演奏をさせられたり、新宿歌舞伎町のダンスホールでは、「そんな曲じゃ踊れねーよ」とバケツの水を浴びせられたりと不遇の時を送ることになる。

ザ・フローラル/涙は花びら

そんな彼らを快く受け入れてくれたのが、六本木のディスコ「スピード」であり、ここで、連日ドアーズの長尺なサイケデリックナンバーを演奏し、めきめきと腕を上げていった。そして、68年の晩秋には、ニューロック路線で行きたい柳田、小坂、菊地と、アイドル路線に拘る杉山、義村の対立が深まり、それは、スタッフの間にも知られるところとなった。当時のマネージャーは、ミュージカラーレコードの広報であり、モンキーズ・ファンクラブの副会長でもあった幾代昌子氏。恐らくは、彼女が奔走し、柳田らの思いを成就させたのであろう。年の瀬、会社としてもアイドル路線に見切りを付け、本格的ロックバンドを誕生させる方向に舵を切ることになった。早速新たなメンバー探しが始まり、柳田ヒロの兄である優と「ドクターズ」というバンドを組んでいた立教大学の細野晴臣がベーシストとしてスカウトされた。そして彼の推薦で、慶応大学の松本隆がドラマーとして参加することになる。

もはや用無しとなったザ・フローラルは、69年2月に解散。新バンドは、「エイプリル・フール」と命名され、3月にリハーサル、4月にレコーディングを行うものの、今度は、バッファローやモビーグレイプなどのアメリカンロック路線で行きたい細野と、クリームやレッドツェッペリンなどのハードロック路線に拘る柳田の音楽的対立が決定的となり、結成からわずか半年で解散してしまうことになるのだ。

さて、このように長々とザ・フローラルに関する歴史を追ったのは、確かに彼らはエイプリル・フールの前身バンドではあるが、芸能界に迎合した曖昧な立ち位置やさほど先鋭的とは言い難い緩い音楽性などの点で、後者とは全く別のバンドであったことをひとまず確認したかったからだ。ぼくはずっとそう思い込んでいた。しかし、どうしたことだろう。エイプリル・フールのミュージカラー盤に印刷された「THE FLORAL」の文字が、実は2つのバンドがシームレスにつながっていたことを何よりも明快に教えてくれるではないか。それは、ぼくの陳腐な思い込みをいとも簡単に粉砕すると同時に、嬉しいことに「GSとニューロックの連続性」という自論の裏付けともなり、ぼくの音楽観に頑丈な柱を打ち立ててくれた。

もう一つ、このサンプル盤に関して書いておかなければならないことがある。それは、何故、日本コロムビアではなく、ミュージカラーレコードからプレスされたのか、という点である。これは、フローラル~エイプリルフールが、同社とマネジメント契約を結んでいたことを考えれば、当然の成り行きであり、疑問に感じる点は何一つないだろう。(ちなみに、スタジオで録音に立ち会ったのも、ジャケット写真を荒木経惟に依頼したのも、すべて、前述の幾代昌子氏の仕事である)。むしろ、何故、日本コロムビアからリリースされることになったのかという点に疑問を抱くべきであろうが、この点は、ミュージカラーレコードの当時の事情を知るものなら、容易に答を導き出すことができる。同社は、レコードのプレス工場はもっていたものの、販売網はなかったため、リリースは日本コロムビアに委ねざるをえなかったのだ。ちなみに当時日本コロムビアの洋楽宣伝担当だった高久光雄氏は、次のように証言している。

「69年に邦楽の部長に『こういうの出すんだけど、邦楽には分かるやついないからお前ディレクターやれ』って言われたのが、小坂忠や松本隆、細野晴臣のいたエイプリル・フール。何しろサンプル盤が500枚で、売れたのが200枚とか250枚ぐらいっていう(笑)。もう音はできてたんで、これをどう売るかを考えてくれと。で、マネージャー代わりに取材をやったり、日本初のフリー・コンサートを虎ノ門の日消ホールかどこかでやった。ところが、発売まで1週間という時に細野君が来て、『すいませんが、解散します』と言うんですよ。困ったなあと思ったけど、無理に止めなかった。お互いアマチュアだったんですね。彼らも、僕らも。同じ空気感でやってたから。」(「レコードコレクターズ」2012年10月号)

最後に、エイプリル・フールは、細野氏が「音盤デビュー」を果たしたバンドと言われているが、彼の「音盤デビュー」が、奥山有子さんとの極めて素朴なデュエット曲「夏の日の海が」であることはあまり知られていない。詳細はこちらを読んでいただきたいが、(特定できていない)録音日については、1967年の2月10日から12日のいずれかではないかと推測する。当日雪が降ったこと、また、細野氏のベースが未だ拙いピック弾き特有のサウンドであることからそのように判断した。あなたはどう思われるだろうか?


◆細野晴臣&奥山有子-夏の日の海が (夏の日の海が青いぞ!)
Viewing all 126 articles
Browse latest View live